了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

序2. 仕分けのルール

(この記事「序2」は他の場所用に起したが当ブログへ移行・利用しています)

 

酌婦来る灯取虫より汚きが  高浜虚子

 

この句に関して「増殖する俳句歳時記」で清水哲男氏は 少なくともこういう人と「お友達」にはなりたくない と述べておられるのが私には興味深く想われた。


「序1」で触れたNHKの記事の表題 『 目上の人に「了解」は失礼? NHKニュース 』 には目上の人 vs 目下の人の構図が見てとれて興味深かった。


私たちの誰もが何らかの構図(≒対立軸等)を以って評価し・批判し・仕分けするのであれば、こういった言動は如何にも人間らしい仕業(しわざ)に違いない。


それで人間らしい仕業を以って許せないと云うのであれば「NHKは許せない」となり、返す刀で清水哲男氏を切ることになり、高浜虚子を切らねばならない。


まあ、誰でも自分だけは切りたくなくて、己を切らなくてならない場面に遭遇して人は逃げ惑うか、知らんふりするか、俺だけ見逃してくれとなるらしい。


それにしても『許すのは俺だけでいい、他の奴らは許さなくていい、だから俺だけ見逃してくれ‥』となるのはどうした訳か? 仕分けのルールを持たないから?


仕分けのルールと云っても普遍的なものを想定する人は殆んどいなくて、大概の人は相対評価し、僅かな人が絶対評価しているのが現状のように見受けられる。


目上の人には礼儀を尽くさなければならないというルールが存在する集団に於いてNHKの立てた表題が受入れられるだろうし、それならそれは善いルールなの?


目上の人は礼儀を尽くされるだけが好いか? 目上は目下にどのような配慮があって然るべきなの? そういったことは一考するに値しない詰らないことなの?


酌婦来る灯取虫より汚きが  高浜虚子

 

17文字の詩の世界は軽々に評価できないが、もちろん、人の心中(しんちゅう)を理解できる私でないが、私なりには虚子とその詩を評価出来るし評価すべきだろう。


そもそも何のために評価するかというと結局「切り捨てる対象 or 拾い上げる対象」の何れかと云えて‥虚子は一往切り捨てる対象として灯取虫を捉えている。


庭木を触っている私の存在を気にも留めずに揚羽蝶が卵を産みつけに飛んできて、追っても追っても蜜柑の樹から去ろうとしない。殺意と憐れみが噴きあがった私なのです。


灯取虫は揚羽の仲間と言えなくもなく、それは一見美しく、しかし、園芸する者にとって憎き敵(かたき)ともなる存在で‥揚羽の存在を許すべきか、許さざるべきか‥?


虚子はどう感じたか‥私には分らないが、灯取虫が独りぼっちに見えたのか? いやいや、経営者は孤独でしょうし、他者への憐れみは返って己にも向けられるだろう。


私はこの短詩に憐れむ者と憐れまれる者を対立させて捉えている。憐れまれるのは厭‥ゆえに他者を憐れむべきでないロジック! 酌婦は虚子を反映した鏡かも知れぬ。


少なくともこういう人と「お友達」にはなりたくないと読者へ語りかける「増俳」の清水哲男氏はどうか? 読者が理解できるフレーズを紡ぎだすのがプロの仕事なんだ。


酌婦を悪しざまに罵るフレーズは私もじっさい感心せず、そして俳壇に受入れられている現実もあり、さらにこのことで清水氏が虚子を拒絶していない事実も感じられる。


相対評価は人を切捨てる思想につながり、絶対評価は人を生かす思想につながると考えるとこれは相対評価に見えて実は虚子も清水哲男氏も絶対評価の人と云える気がする。


5月8日放映の連ドラ「ひよっこ」はヒロインみね子が親切なお巡りさんに連れられて父の跡をたどる。どうしてそんなに親切なの? 同郷の人は仲間だから助けたい。


仲間は助け合うべきという理屈は現代日本人に通じるロジック(≒ルール)に違いない。これは逆にいえば、仲間と見做されることで助けてもらえる(幸運な)みね子なんだ。


芥川龍之介著「蜘蛛の糸」の犍陀多(かんだた)は一匹の蜘蛛を踏みつぶす瞬間の気紛れから踏み潰さずに見逃す。おそらく犍陀多のその時の機嫌が好かったのだろう。


このように他者を評価する基準は「憐れみ・同郷・機嫌がいい」etc‥天気次第で変ったりするから(現実に)基準はないようでも、基準は一人一人に具わっていると私は思う。


結局他者を「切り捨てる対象 or 拾い上げる対象 」のどちらかに仕分ける。しかも誰でも気分好くありたい‥すなわち、切り捨てられるのでなく拾い上げられたい。


前褐の揚羽の場合も私の気持ちと犍陀多の気持ちは通じ合うと言えそうです。揚羽を切捨てても好かったが、わざわざ殺すことはないと躊躇した末に逃がしてしまった。


私は蝶を愛(め)ではしても愛(あい)するものでなく、悪しく係わる蝶ということであれば躊躇(ためら)うことなくその蝶の命を奪ってしまう残虐性を具えてもいる。


害悪をなさない肉牛・魚貝類などに対して私は彼等に一方的に害悪をなす存在。すなわち、世界を仕分けするときの蝶や牛・魚貝類は私の仲間の一員に加わることはない。


私にとっての仲間は人間だけであり、如何な美しい蝶でも愛でたり種保護の対象に過ぎす、しかし仲間の意味は人毎に異なっていて、犬・猫を仲間と見做す人もいるだろう。


明日を共に迎えるために乏しい食べ物も分かち合うのが仲間‥これが私の考えであり、愛犬を食らえば仲間が助かるという状況なら私は愛犬を殺すことを躊躇わない。


(蛇足的に続けます)
殺してしまいたいほど憎い人間が私の手中にあるとき、私はその憎むべき人間を切捨てずに拾い上げてやれるだろうか? これはもう習慣化して私の血肉化を図るしかない。


私の(野生の)感情のままを許しては、感情の支配下に置かれた私の肉体は到底理性で制御できず、そのような感情人間が巷(ちまた)に溢れた社会では酷い争いが絶えるまい。


毎日毎日「人間は仲間」と我と我が身に言い聞かせ続けることで「私の結界」と成し、私の野生の感情が動きだすより先に理性が働く環境を整えておきたいと思う。


感情は感情を呼び寄せ、理性は理性を呼び寄せるというロジックが誤りでなければ、主体者こそが誰より強力な理性を働かさなければならないと私は考えている。


理性に勝つ感情なく、道理に合わない理性なく、理性と理性は共鳴し増幅して最強のパワーを生むことになって、僅かの理性も雪ダルマ式に大きく育つことが期待できる。


長々述べてきたが、誰が主体者たるべきか、主体者の条件は何なのか‥分りきったようでも単純な見落としから事故が起るように、詰らない事故を起さないよう祈りたい。

酌婦来る灯取虫より汚きが  高浜虚子

虚子の造語「客観写生」‥句の表面は簡単な叙景叙事であるが、味へば味ふ程内部に複雑な光景なり感情なりが寓されてゐるといふやうな句がいゝと思ふのである 。


仏は娑婆に赴き、類は友を呼ぶと云う。灯取虫(≒虚子)が招いた汚き酌婦と読んでも面白い。この虚子は仏なのか、虚子は類(るい)の人なのか? 楽しんで味わっている。