了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

死刑制度‥その意味は?

件(くだん)の資料の筆者に限らず、死刑制度自論を開陳する人の多くが正義論を以って死刑存廃論議に片を付けようとするようだが、その手法で的を射ることは可能なのか?的を射ることが可能ならそれでも構わない訳で、だが的を射られないなら存廃論議は初めから成立していないことが分り、それなら存廃のドチラの側が正義論を好んで持出すのか‥私は気になる。因みに件の筆者は廃止しなくてよいと述べているようだ。

 それにしても正義論では存廃論議を真っ当に語れない訳があるのだろうか‥これに付いては真剣に考え・討議しなくてはならない筈だが、もしかして存廃のドチラかが討議を嫌がっているのだろうか。真剣な討議を願う人は討議を嫌がらないから、正義を願い・真っ当な(刑)法を望む人か否かの判別はこの視点を捨てなければクッキリ顕われ見える筈です。真っ当な姿勢を嫌い・避ける‥その者は人にも社会にも害悪をなす存在と言わねばならなくなりそうだ。

 真剣な討議は言葉の定義が明らかにされる場で為されるのでなかろうか。ご存知のとおり、幼児と語りあう場では言葉を真っ当に使いこなせない幼児を相手にする大人(仮にさん)は幼児に真っ当な言葉づかいを無理強いしない。幼児同士・子供同士なら相手の間違いを責め罵るとしても、大人のUさんは幼児のたどたどしい言葉に耳を澄ませて善くリードするように努めるだろう。

たどたどしい相手に対しては善くリードしようと努める大人なさん。そうすると子供に育てられて親になれるという理屈が身近に感じられそうです。 立派な大人を相手にして喋るのは楽かも知れない。だが立派な親を持つ子供はたどたどしい相手に恵まれない不幸な身の上と言えるかも知れない。いつも親がリードしていては子供は大人になる訓練の場を持てず、甘えから抜け出せない‥。

私のほうが大人であれば私がリードして、言葉の定義も明らかにしたい。どちらも大人なら相手に通じる言葉を互いに編みだしていけば良い。そういった作業工程を嫌がり避ける相手であれば、それは子供であり死刑制度を語れるほど理性が育っていないのです。ともあれ、そのような駄目な人は己を不幸にしつつ、私を全うに育ててくれる有難い反面教師なんだと知って感謝したい。

話が脇道に逸れてしまった観がありますから元に戻します。死刑‥これは法律用語であると心に刻んでおく方が好いようです。死刑は殺人でないと嬉しそうに言う無責任なマスコミ関係者や法律関係者がいて、存置論者にも死刑は殺人でないと口真似する人が多かったようですが、最近はそのフレーズも社会に通じない。法律用語は世間の常識外で「死刑は殺人」というフレーズは法律用語にない。

死刑は殺人でない‥というが如きフレーズは世間の常識から懸け離れた法律用語であり、世間の人たちを煙に巻く「恥しい目的」で吹聴しているマスコミ等であることを知らなくてはならないと思う。それに乗せられた人たちはさも重大事を知ったふうに「死刑は殺人でない」と共鳴して得意がって騒いだようです。その伝で云えば「ナチスヒトラーは犯罪者でない」となる。

すなわち、討議するなら双方が言葉の定義を共有しなければならないとお分かりになるでしょう。