了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

討議の目標は?

正義を語るなら相互に正義を定義づけしなければならない。然(しか)るに正義を語る者が「正義の定義はない」と云って済ますなら言葉を弄(もてあそ)ぶ無責任な者と断定できそうです。仮にさんが思っている「正義とは〇〇〇」を明確に示すことで討議は前進する筈です。例えば「順法の人は正義である」とするときは、独裁者は正義であり、独裁者に殺されるさんは悪人たるの謗りを免れないでしょう。

討議に負けたくないという気持ちをお持ちのは多いでしょう。その人、仮にさんは討議の目標を勝つことに置いている。卑劣なことをしてでも勝つことが正義であるとでも思っているのでしょう。卑劣な振舞いが正義だなんて、そんな恥知らずなことはさんとしてもトテモトテモ公言出来まい。討議の目標を相互の成長に置くとき、さんも相手も周囲の人も成長へ一歩近づくのは間違いありません。

勝負にこだわる人は負けることを恥と捉えるようです。討議は私たちの間違った考えを直すチャンスとなって、関わった人たちが一歩一歩賢く育っていくための道となるのに、勝ち負けでしか捉えられない世界に生きるのは前進・進歩と言わず、後退・退化ですから畜生道へ向かうのをどうして食い止められるだろうか‥。

さらに、私たちは討議の場をどう捉えるべきだろうか? さんは社会的な立場が弱くて発言権を発揮できないとお思いになるかも知れない。そうするとさんは社会的な強者に唯唯諾諾(いいだくだく)従って生きるのを支持してらっしゃることになる。弱者は黙っとれという思想に共鳴しているさんで良いのだろうか? 私たちは国会で発言する場を持たないが、公共物(電波)を使って発信・発言できる筈です。

正しいと信じることを世に問う場‥それが公共の電波であれば、私たちは己のためだけの欲望を達成する目的で公共物(≒電波)を乱用する者を厳しく監視しなければならないでしょう。なあに、私欲だけの者は正論を大切にできず、誹謗・中傷に明け暮れるようですから見分けるのは難しくない‥私はそう思うのです。負けてばかりでは精神衛生上に悪いし、公共の利を求める人は私欲の人に対して結果的に連戦連勝するでしょう。

結局、
無理手・無理筋を打たない人に齎(もたら)される勝利のようです‥。