了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

正義を身近に置いて

日本語は反対語と言ったリ、反義語と言ったリ、対義語と言ったリして、いずれも同じような使いかたがされたりして明確な区別が成されているとは限らないようです。例えば白黒をつけるで云えば白黒に真逆の意味を含ませているし、紅白歌合戦で云えば紅白に一対の存在としての意味を含ませているようであるが必ずしも厳密なルールによって決められたモノではないようです。そうすると白の反対は黒と云う人がいていいし、紅だという人がいても構わない。だから言葉(特に日本語)を使う場合には自己責任わなければならないことになる。遣う‥すなわち相手を気遣い・工夫して使う

当然ですが相手を気遣い・工夫して使うべきは賢い側・大人に近い側であるべきで、幼児・子供に気遣えだの工夫しろだの期待するのは無理筋ってものでしょう。将棋では初心者ほど無理筋を打ち、高段者ほど無理筋を避ける知恵を働かせるが、普段の場でも上位者が下位者に対して「俺の土俵に上がってきて説明しろ」と云うが如き無理をいう人は上位者としての能力が具わってないのでないかと眉(まゆ)に唾(つば)を付けて見直すべきかも知れない。つまり、相手が理解できないのは自分の責任でなかろうかと反省して当然でなかろうか? だから相手を馬鹿にする己は救いようのないお馬鹿。

正義のの反対語は正邪のと云えそうでも、数学のの反対語は正負のだろうし、しかし、正誤のも決して無視してならないだろうし、そもそも言葉というもので思いを全て言い果(おお)せるモノでもないだろう。その程度は分るのが大人であり、当然ながら私は大人に怒られた経験がない。この程度の常識は大人になる前に身に着けて社会に出る訳で、仮にもこの常識を身に着けることなく職業人になって他者を指導する地位にでも着こうものなら後輩に悪影響を及ぼし、顧客には害を及ぼし、結局、職場にも害を為し、社会に害悪を為すのだろう。害悪を為して正義とは言えまい‥。

私が親から常識を教わらず・正義を知らなければ、知らないのは私の責任だろうかと考えるに‥この場合は私が見下している人に対して恥じなければなるまい。恥を知ってこそ責任を感じる能力が具わるだろうし、恥を知るには知能が具わってなければ出来ないだろうから、人間だけが恥を知ることに納得するのでなかろうか?いやいや、一足飛びに大人へジャンプできる私でなく、一歩一歩学び続けたいと思っているところです。主体者は少なくとも知恵の二面を必要とする。智恵には感性だけでは足らず、理性が具わってこそ感性と理性は補い合い・育っていくのだろうと思うのですよ。