了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

正直者は馬鹿をみる(か)?

結局、正直者は馬鹿をみると考えた人は正直者だったのですか? いいえ、違いました‥そうでしょう!?  見方を変えてみましょうか? 母が自分の食事を削って大切な子供に食べさせました。それでこの母は馬鹿をみた?‥つまり、損しただろうか?

見返りを期待して子供に食べさせたのであれば馬鹿をみたでしょうね。それと同じことです。あなたは見返りを期待して正直にしたが見返りが期待にそぐわなかった。それなら馬鹿をみたと思うだろう。正直者は子に見返りを期待するか? そんなマサカね。

正義に暗い人はモノゴトを全うに見ないのでなかろうか? 子供に食べさせるのを惜しむ親は現にいるだろう。だがそのような親を正直者と言わない。正直者は正義を大事とみる。なにが正義に適(かな)うか・適わないかと判別することに真剣に取組む。

自力で生きられない子供(人)に構わず自分が食べて満足しようとするなら、そんな正義に悖(もと)る生き方をする人はホントに馬鹿をみることになる。だから正直者はばかをみるという フレーズは正直者が考え出したのでなく、そうでない人の作となる。

自分を益することにばかり関心が高くても、それが文明社会でなければ已む得ないことと理解したい。例えば獣は子育てを終えると子供を放り出し、その後は獲物を親子でも命がけの奪いあいをして生きなければならない。畜生ゆえに種が生き残るためにそれは仕方ないこと。だが人間だけは獣と違うのでなかろうか?

自分を益する生き方‥それは獣の道。人間は獣の道に見切りをつけた。獣から人間道へと路線を切替えた。人間道の先には自分のに囚われない道が続いていく。利益欲しい・利益欲しいから、みんなをする道で醜い争いをしない、みんなで美味しくの道。

表題のフレーズをどうしても活かしたければですが‥正直者は馬鹿な生き方を憐れみ見るとなりそうです。いかが?に囚われる不幸はやめませんか?