了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

なんのため‥とか

支給された制服に体のサイズを合わせるべきか?あるいは、体に制服のサイズを合わせるべきか? あなたはドチラであるべきとお思いになるだろうか? この正義論カテをお読みくださってるアナタならモシカシテ安易にお答えにならないかも知れない。私がそう考える根拠は、アナタが疑心暗鬼に陥(おちい)っているからだと決して安直に考えた訳でないのは当然ですが、同じくアナタも決して過去に知った回答を引っ張りだしてきて、その記憶の中から今回の回答を安易に選んでらっしゃる訳でないと考えるのです。

正義論をご自分の記憶で語る人はいらっしゃるし、しかし私は正義論を哲学と捉えていて昨日の解答が今日の解答として相応しいとは思っていないのです。哲学は己を高め深め広め磨きあげるの分野を担うものと考えていて、仮にも数学の公式を記憶していて即座に答を導きだせるコンピュータに肩を並べたらOKとなるような性質のものでないことは明らかでしょう。コンピュータの得意な分野では足元にも及ばない人間だが、過去に経験しなかった分野を担えるのは人間だけであり、人間が成すべき哲学だろう。

安直であろうが安易であろうがコンピュータが出す答は常に一定であって、それがコンピュータの信頼性に繋がる。未知の分野を予測するときも、過去に出た分野を見直すときも人間の信頼性は高くなくとも得られるデータの信頼性も高くなくても出来るかぎり信頼性を高めようとする哲学に依って明日を予測するとき、私たち人間の誰もが不満は打ち消せなくても、安心感は満たされなくても、前向きに倒れてこそ得られる納得があるように、例え扱(こ)けても「次があるさ」と気を取りなおせるのでなかろうか‥!?

誰も置き去りにしない哲学が具わる社会では一般人のあなたが置き去りにされる筈がなく、ところが一番下から順に置き去りにされる社会を支配する法が肩で風を切って歩くならそんな社会で置き去りにされたくないあなたは「なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ」と嘆かなくて済むように人を踏みつけにしてでも先へ先へと争って駆けだすのでなかろうか?制服を体に合わせてもいいし、体を制服に合わせるべき場合もあろうし、どちらを選ぶべきか‥何のためという目的観に立つ哲学が向いてそうです。

正義と哲学‥ちょっと述べてみたくて‥。😅