了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

セカンドネイチャー

 資料を頭に叩き込んでコトに望む心構えを「彼を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず」と孫子(の格言)は説く。私が営業にまわるなら見込み客の情報を可能なかぎり集めて、さらにその情報に己が対処出来ること・出来ないことを調べて、その上で交渉の肝心を抽出して見込み客の望みを叶えるべく出来るだけ良い情報を届けようとするから、そんな私は孫子の格言に異を唱えず、見込み客に接する機会の都度都度に余念なく抜かりなく準備しようとすることになる。

さて、都度都度に‥すなわち心機一転となるからコレは本能である筈なく、準備しようとする作業は繰返されて無意識の振舞い‥すなわち本能的だが、これは普遍的な本能でなくてセカンドネイチャーとでも云えそうだ。そうすると一々考えて言動に移るのでなく反射的とか発作的に口を吐いて出る言葉・振舞いもセカンドネイチャーの類(たぐい)となる。妻への私の朝の挨拶もセカンドネイチャーだし、アリガトウ・ご馳走さま・タダイマと笑顔になるのもセカンドネイチャーに違いない。

あなたが営業のベテランなら売込むべき対象を目にしたとき、気づいたときには門戸を叩いている経験をしたかもしれない。このような行動は新人の営業であれば「どうしようどうしよう」と悩み考えることでもベテランは反射的に心身が動く訳で習性と言われたりするが、自動車運転してると頭と手足は勝手に連動しているし、歩くと両手は逆に振れてるし、手と足は互い違いに振れてるし、セカンドネイチャーが具わることで私たちは効率的に動ける訳で、訓練習い性となって後天的に心や体に具わっていく。

誰かの顔を見た瞬間に私が苦虫を噛みつぶした表情をするなら、それは最早本能的で身に着いた癖であって、だがこれは悪いほうの癖と云えるだろう。人間を信じられなくなると憎む心が本能的に湧きたつのでなかろうか? 憎む心については又の機会に譲るとして今回はセカンドネイチャーに少しだけ触れた。都度都度に考えるべきこと本能的に為すべきことには一長一短がソレゾレありそうです。家庭菜園に取組んでいる私で云えば、園芸作業をセカンドネイチャーのレベルにまで高めるべく効率の悪い努力もしている。