了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

三木清(人生論ノート)①

NHK100分de名著三木清人生論ノートを扱っていた。それで思うのだが幸福論を述べるからには幸福を確実にモノにするのでなければその幸福論には存在する意味も価値もない筈だ。それで幸福論を説いた三木清について考えなければならぬと思った。

人生論ノートを読み解く岸見 一郎教授の深い想いは私には分らないが、21世紀の今日を生きる私たちの立場で人生論ノートを学ぶ価値は大いにあると教授は考えたようだ。それについては私も同感で、それでこうして私の精一杯を綴っているところなのです。

それでは私の思いの丈を歯に衣着せずにストレートに綴ってまいりたい。

どのような想いで三木清は人生論ノートを書いたのか‥じっさいの所は私に分かる訳がないが、岸見教授は善い方向で解釈しているようだし、私も善い方向で解釈したいと思うし、あなたも三木清を善い方向で理解したいと思ってらっしゃるのでなかろうか!?

 ともあれ誰もが自分の立ち位置から三木清を見ている訳で、誰かと入れ換わった立ち位置から三木清を眺めるなどということは有り得ないことでなかろうかと、このように反応する私の埒外(能力の外)にいる三木清を誤解することを私は恐れて当然なのです。

それでは私が誤解を恐れるのは何故なのか‥既に述べたように私は三木清を善い方向で解釈したいのですから、そんな私は三木を悪く解釈するのを恐れて当然です。何のために哲学するかと云えばお互いに理解し合うことを目標に置くべきと(私は)なるのです。

現代日本人はどっちつかず(の姿勢)を好しとするようです。あなたは空気を読めよとあまり思わない人だろうか?大概の人は空気を読まない人を好まないのでなかろうか‥つまり腹の内を表に出さず見せずの言動を大人の振舞いだと思いたいのでなかろうか⁉

例えばイヤな気持ちも面(おもて)に出さずにニコッと微笑んでいれば、それがオトナの対応だとして褒(ほ)めそやすのではなかろうか。その結果、理解し合う関係を築くことをせず、ただし、お上手(じょうず)を言い交わす関係は広まっている現代日本?

金がないのは首がないのと同じ‥これは私が関西に住んでおぼえたフレーズで、首をつなぐためにカネカネカネとなるのかも知れないが、首をつなぐのと引換えに理解し合う関係を作れないならばナンテ悲しいことでなかろうか‥私はそう思ってしまう。

商売人はお上手を言い、どっちつかずの曖昧(あいまい)な言いかたで誰からも好かれようとすることになり、物を売るためにそのような態度をとるのも常識のように思われて、例えば兵器業者は敵・味方の両方を上得意にして揉(も)み手するような感じ‥?

どうしてこのようなことを書くかと云うと、ここは今、幸福論を語る場になっているからなのですが、続きは三木清(人生論ノート)②で展開したいと思います。😅