了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

三木清(人生論ノート)③

ココまでに大まかなところは述べたツモリで、ココからの書込みは被(かぶ)りそうですがご容赦願います。獣には獣の言い分があり、鳥には鳥の言い分があると思えたら獣を憎むことは能(あた)わず、鳥を憎むことも能わずで即ち、蝙蝠が誰かを憎むことは能わずとなる筈でも、それを受入れることは蝙蝠にはナンとも難しいことに思える。

日本の現状の責任はどこに起因するかというと、現代人の心理の無秩序が始まったと説かれたように私には受取れる。この解釈が当を得ているとき、三木の心の秩序は保たれていると言いたいかも知れず、だが三木清は現代人に含まれるのか?それとも現代人に含まれないのか? 文脈から三木は現代人の範疇に含まれないように思われるが‥

現代人に含まれると解するときの三木の心理は無秩序に揺らいでいると言えそうで、それなら三木は戦前(1945年以前)の哲学(=社会常識)に「靡(なび)いているとする解釈が成立つ。とは言え、靡いているという解釈を戦前の日本の哲学は採用しなかったし、戦後の哲学(=進駐軍の常識)も三木を同志と見做したとは断定できそうにない。

三木を善く理解したい人(例えば岸見一郎教授)は三木の善(ぜん)を証明しようとしただろうし、また逆に三木を悪しく理解する(例えば戦前回帰志向の)人たちも三木を祀(まつ)りあげることで三木の思想を受入れていた戦前の哲学(=社会常識)は啓かれた素晴らしい民主主義の思想だったという理屈を述べることが可能になるようです。

そうであれば三木の人生論ノートは真逆のスタンスに立つ双方が共に爆弾としての役割りを担わせられそうだ。結局三木は生きてはどちらからも敵として疎んじられ、死んだ後の三木はどちらにも都合のいい凶器の役目を仰せつかることを恐れるべきでしょう。即ち旗幟(きし)を鮮明にしない手法は哲学に馴染みにくいのでなかろうか。

実践の哲学‥それは旗幟を鮮明にして、自身は幸せであり続け、善を為す人には利益(幸福)を齎(もたら)し元気づけ、害悪を為す者の過ちは質し・立直らせるべく働いて、仮にも誤解させて悪道へ向かわせないように努めるのが善いように思う。そうすることで誰もが心理の無秩序の深淵(しんえん)に嵌(は)まらないで済むような気がする。

実践の哲学は(何者かに)準じる術(すべ)と私は思ってなくて、そもそも哲学は誰かを敵視する術でない筈で、現に私は実践の哲学者が誰かを敵視した事実を知らないが、あなたも人を敵視する姿勢を哲学者のものとは思わないのでなかろうか。いかが? 人間を敵と視ず、事実の奥の深くに真実を探る試みを続ける‥それが(芯とすべき)哲学だと思う。

なにせ(哲学して)人生が(善く)変わらなければ意味がない‥でしょう!?

ところで深淵と云えば‥私たちは宝玉を深い泥水の淵(ふち)へ落として以来、不幸を味わい続けているのかも知れず、泥水ゆえに、深淵ゆえに、私たちの目に宝玉が見える筈なく、泥水は汲んでも汲んでも後から後から泥水が流れこんで一向に宝玉は姿を現わさない‥そんな話に憶えがあるが、一気に潜って手に取って浮びあがれば確からしい。😅