了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

三木清(人生論ノート)④

幸福の要求が総べての行為の動機である
 ということは以前の倫理学の共通の出発点であった

なるほど、言ってることは分かる。分かるが理解したくない気持ちも分かる気がする。以前の倫理学への復旧を想う懐古趣味も構わないと私は思うものの、頑(かたく)なに懐古趣味でなければならぬと思わせぶるよりも戦前の倫理学が何故駄目なのかを証明するほうが万人に通じる説得方法なのではあるまいか!?

戦前、自己犠牲や滅私奉公"徳”とされたようです。そして「幸福=徳」は危険な思想と見做されたらしい。三木はこれと真逆の思想だったのか?つまり、白か黒か(二者択一)だったのか? 白派も黒派も相手を全面否定でヨシとしたのか? ともあれ、私なりに簡単に分析して付け加えておきたいと思う。

a) 自己犠牲は徳たり得ないか?
b) 滅私奉公は徳たり得ないか?
c) 「幸福=徳」は危うきたり得ないか?

自分を省みずに子供を護る母は不幸だろうか? すなわち、a) 自己犠牲 にも見える振舞いをする母に徳はないだろうか? 同様に、b) 滅私奉公する姿勢に徳はないだろうか?また、c) 「幸福=徳」と捉える思想から危うい結果は生れないだろうか? すなわち、abcが証明された後に白か黒かの二者択一の選択肢が生れるのでなかろうか?

証明せずに己の論のゴリ押しをするなら、それが白派であれ黒派であれ目糞鼻糞となるのでなかろうか? 目糞鼻糞であるならば目糞を害悪と捉えるときは鼻糞も同じく害悪の予備軍として警戒しなければならない。目糞が感情論なら鼻糞は感情論の予備軍であり、放っておけばイズレ人間に害悪をなすゆえに啓蒙・教育すべき対象でなかろうか?

(念のために述べると)私は人生論ノートを読破した訳でなく、三木清に通じている訳でなく、人生論ノートの部分読みになっていることを考えておくべきです。

成功は過程であり、幸福は存在である

成功は道標(みちしるべ)のように日々刻々に味わっても、私たちはその先を目指して進むのであり、嬰児が乳を含むのに成功したからといって人生が終了する訳でないように、小学生は算数を憶えるのに成功し、中学生は数学を憶えるのに成功し、更に学校で憶えるのに成功したら、次は知恵をつかうことを覚えなければならない‥

魚は水を見ずとも水に寄って生き、人は空気を見ずとも空気に寄って生き、幸福な存在(仮に子供)は今日の結果に満足せず次の目標に向かって駆けだすだろう。駆けだそうにも駆けだせない幸福な子供は夢を描いたり、目標を作ったりするだろう。幸福を知らずとも幸福な存在は世界に係わる。幸福な存在ゆえに反応を感知もするのです。

幸福を目的にする生き方は正義か?

幸福な存在ならこそ、幸福を目的にすることもアリなのですね。即ち、幸福を目的にする生き方を正義に適う生き方にも出来るのです。正義に適う生き方をするには正義に通じていなければ確実性は見込めません。ゆえに正義に通じてこそ悠々たる人生を望めるでしょう。望んだら如何に生きるか‥ここにが発動することになります。( ´∀` )