了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

三木清(人生論ノート)⑤

今回、100分de名著「講義・人生論ノート第回」に入ります。テーマとして「自分を苦しめるものの正体」とある。三木は何かで苦しんでいたらしい。

 

(独自の)哲学を希求する人の多さを私は感じる。じっさい、釈迦を上回る評価を得ようと画策した提婆達多以外に、過去も現在も未来にもそのような者を私たちは知ることになろう。無限の闇で苦しみ続ける提婆だが己の過ちに気づけば元々賢いゆえに一気に浮上して社会に尽くし恩返しすることになろうし、彼が幸福を味わうことは予想できる。

自分で餅を搗(つ)かないことには自分で搗いた餅の美味さを味わうことなく、棚ボタとか人に搗かせたとか奪いとった餅で同じく満たされることは有りえず、どこかで手に入れた餅を以って飢えた人を羨(うらや)ませて‥これはハテ、満足と云える代物(しろもの)なのか? 満足を知らぬ者が満足を見立ててみても擬似(ぎじ)ゆえに満足は得られまい。

それにしても三木清の真実を私は見ず、言ってみれば私に釈迦の心は見えず、提婆の心も見えず、釈迦や提婆に善く学ぶことのみ出来て、即ち仏説に遵(したが)って、過去に観なかった悦(よろこ)びを知り続けるなら、その事実に鑑(かんが)みて私は自信を以って満足を得ることになる。三木はナニを以って苦を逃れ満足の境地へ至るとするのか‥。

必要とあらば言葉の定義を新たに起こすべきだろう。だが言葉の意味を徒(いたずら)に弄(もてあそ)ぶなら人心を混乱させる悪行・害悪に違いなく、仮にも金儲けの手段として言葉を弄(ろう)するなら売文屋の謗(そし)りを受けることを覚悟すべきだ。もちろん、売文屋にも蝙蝠(こうもり)の如き自負(じふ)・長所がないとは言えなくて、人と仲良くしたいがための方便(ほうべん)であれば感心しないまでも善く理解したい私なのです。

文書に目をとおす癖(≒second nature)は私の心身に具わっていてその対象となるところに例外はない。私の目に、三木清は言葉に独特の意味を含ませていてそれは三木の独学が為した癖なのか?あるいは敢えて遣っているのか?いずれにしても三木の曖昧な言葉づかいに読む人は誤解させられ途を過る人の出現を惧(おそ)れない訳にはいかない。

子供より家族より他人よりも親が大事・俺が大事と呟きながら一人占めした黄桃をゲップが出るほど食べている姿をみて、あなたなら辟易(へきえき)しないか?そのように他者の幸せに関心をもたない者からいくら尤(もっと)もらしく切り貼りした文字を指し示されても手放しで賛同すべき根拠が私には見えないが、あなたならいかがだろうか?

すべての人間的と言われるパッションはヴァニティ(虚栄)から生れる

 パッションはしばしば理性と対比される感情だと理解する。理性は生物的というより人間的であるのは誰も否定できないでしょう。感情は生物一般に観られる動きでイヤな所から遠ざかり好ましい所へ寄っていこうとする姿に窺(うかが)えるのでなかろうか?然(しか)るに人間的な感情とは‥生物一般には観られない習性、人間だけの習性‥かな?

(異性に対する)情欲、色情、恋情、熱情、情熱、激情などのパッションは人間だけのモノではありません。(理性に対する)感情、情感、熱愛、熱中なども人間だけに観られるものではない。虚栄(うわべだけをてらうこと。みえ。)にしても理性が認められない生物一般は虚栄の世界を築いていることになり、虚栄の世界の生物たち‥と導かれる。

さて、三木清は人間的か? 生物的か? あるいは機械的か? 機械的を好しとする思想は現にある。尻尾は尻尾らしくあれ。眼は眼らしくあれ。口は口の役目を果たしていろ。そして俺さまは脳だ・頭脳だ。だから身体は頭脳の指令に従順に従えとなる。頭脳が個人‥それは独裁者。頭脳が集団‥それは独裁思想集団。民衆に発言権はないとなる。

三木清はこの思想に被れていると疑われたなら進駐軍は三木を警戒しただろうな。