了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

三木清(人生論ノート)⑥

次下のフレーズでもう少し続けようと思います。

すべての人間的と言われるパッションはヴァニティ(虚栄)から生れる

人間はみな、生きるうえで不安や恐れを抱えていて、そこから少しでも目を背けるために自分以上の自分を作り出そうする」と聞くとナルホドと思いつつもそれは人間の生きかたにそぐわないと私は返したい。

太平洋戦争前夜、書かれた人生論‥重苦しい時代を生きる人々に人生論ノートは一筋の希望として読まれた」と説明されたら好かったと思うよりも一筋の希望をみた人はどこの誰かと問いたい。この難解なノートを彼らは読み解いたのか? ここまでに私は希望をみるフレーズに出合っていない。曖昧な文体に見える三木の言い回しを過たずに理解し、善く理解して希望をみたのは誰なのか?それこそ見せかけの希望でないか?

仮にも耳は耳らしくあれと学んだ人は「人々に人生論ノートは一筋の希望として読まれたと聞いてどう反応するだろうか? 疑いなき神の声として心に刻むのだろうか? こうして己の心を失う者が増えた社会は人間らしいか?人間らしくないか?人の心を失くして人間らしくいられるか。そうでなければ、その者らは今どこに居るのだろうか?

人間らしくあるために人は苦難から目を背けてはなるまい。目を背ける者は逃げ場を求めてヴァニティ(虚栄)を追い求める。猫は群れの一番奥の席を最良の逃げ場とし、鰯はイワシ玉の真中を最良とし、蛸は蛸壺の中に安心を求めてもそこは虚栄ゆえに安住できず、遂にその身は滅びる。自分以上の自分を作ったツモリでいても逃げ場はない。

私たち人間はありのままの自分の居場所を願うべきでなかろうか⁉ 猫は他者を圧しようとして一番奥のボスの座を巡って争う。それは今の自然の掟かも知れないが、だからといって今の掟に縛られ流されなければならないという理屈に遵うべき根拠はあるだろうか!? 猿も犬も猫も鳥も自然の子かも知れないが、人間も自然の子に違いない筈です。

自然に縁があって生れた生物・動物・人間。荒地(≒虚栄)を荒地のままに活用するのも鍛えるためには好いと思う。凸凹・崖・洪水・地震などで鍛われるのも意味があるが、天を仰いで昼寝するには整備しておくほうが好い筈で、安全対策は欠かせないと思う。特別でない普通の人のための安全対策がされたら自分の為にも安全に違いない。

三木清人生論ノートとして生れた私のこの記事、三木の真実は私に見えなくても三木に善く学びたい。善く学んだからは私の生活は正しい軌道に向かうに違いなく、悪しく学んでは正しい軌道から外れる約束で、(三木に限らず誰にでもだが)善く学んだなら正義に適う気がする‥(自画自賛としても)私は人を無駄にしていない計算なのです。