了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

三木清(人生論ノート)⑦

想像力は魔術的なもの‥。ひとは自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する。

 

想像・妄想の産物に過ぎないフィクションにも方向性を与える知恵をもつ人間ですが、知恵は善悪に通じる。善悪の違いを教えずに夢だけを語っては悪道に堕ちる人が続出するのを防げない。ゆえに人を善く導きたい者は善悪に通じていなければならない筈だ。アラビアンナイトは魔術的だが現代人はopen sesameでなくokでも手を叩くだけでも扉を簡単に開くことが可能だ。ドローンを発展させれば空飛ぶ絨毯も指呼の間。あなたは自動扉に嫉妬するか? あなたはドローンに嫉妬するか? 嫉妬する筈がなかろ?

結局、人の想像力が生みだしたものに嫉妬する者が三木の周りに大勢いたことが窺える。だが誰もが嫉妬するとどうして言えよう。但し、病的な想像力が働くと(たとえば被害妄想という言葉もあるが)、その者は人を嫌ったリ憎んだり傷つけたりしたくなる。

想像力がく働くときの人は活き活きと輝くようで、逆にしく働くときの人が嫉妬するサマを三木は観察して知っていたのだろうな。それで三木はそのような不幸な人に寄り添ったのか? それともすり寄ったのか? 三木の文はすり寄っていないだろうか?

(念のために)すり寄る寄り添うには日本語に特有のニュアンス的な差しかないかも知れないが、すり寄るで検索するとどう云う訳か猫や犬がいっぱい出てくる。笑。甘え上手な犬猫たち。それに対して優しい人は疲れた人に寄り添っていたりするようですね。 

人と犬猫の決定的な違いをあなたはドコにご覧になるだろうか?すり寄る犬猫と寄り添う人との差と云えば好いかな。寄り添うのは主体者でしょう? 人間には主体的責任が似合うのでなかろうか? それに対して犬猫は責任を問われない立場で暮らすでしょう?

主体に対して客体というが、主体は客体を保護し・導くと捉えていい。親は主体で幼児は客体。幼稚園の先生は主体で園児は客体。中学生になると主体意識が芽生える生徒も増えるのでなかろうか。その中学生が主体で成人が客体という関係もありますからね。

主体は客体に甘えないし、客体は甘えたり拗ねたリ泣き言を言ったりする。責任を感じれば我がままなんて言ってられません。我がまま言う客体を慰めたり褒めたり励ましたり‥だよね!? 三木の周りに嫉妬する者がいたなら三木が確り責任を感じるべきでしょ!?

自分の想像力で作り出したものに対して嫉妬する人が三木の周りにいるとき‥三木は科学者であっても構わないが、先ず実践の哲学者を自覚しなきゃいけないのじゃないか?慰めるにしてもヨチヨチと声掛けするだけでは戴けない。時には叱ることも必要だよ。

まして判じ文を切り貼りして出版し、ベストセラーになったと評価されることにどんな哲学的な意味があるだろうか? 岸見一郎教授の援けがなければ平均的日本人には読み解けないんじゃ何のための実践の肩書なんだか‥偽善者かと怪しむしかないじゃないか。

いやいや、今回は三木清を叱ることになってしまいました。😅