了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

三木清(人生論ノート)⑨ 幸福は普遍的か?

ご年配の方はお座敷小唄をご存知でしょう。ご存知ない方のためには歌詞を載せますね。さて、3番の歌詞にほどのよいのにほだされてとあります。この「ほだされる」は幸せな気持ちを込めて唄います。束縛されて幸せよって意味になります。かぐや姫は地球に送致されてきましたが竹取の翁媼に大切にされて情を絆(ほだ)されたようです‥かぐや姫については別に採りあげます。それで私に束縛されてあなたは幸せだろうか?

いやいや、あなたの大好きな恋人に抱かれてあなたは幸福をかんじたとしてもホントにあなたは幸福だろうか?そりゃあ幸福に決ってると言いたいかも知れないけれど私にはそうは思えない。幸と不幸は違うと決ったモノでないと私は思うのです。三木清は「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福がなんであるかを理解し得なくなった」と判じ文みたいなことを述べたらしいが‥ハテ⁉

三木の曖昧表現の末に人々は「幸福は幸福、不幸は不幸」と誤解しかねないと私は危惧する。幸福は不幸になり、不幸は幸福になるゆえに、ほどのよい扱いに人は不幸と思われ勝ちな束縛をも幸せと感じてしまう。またあなたは大好きな恋人にシツコク抱きしめられてもうイヤッっとなって別れを決意するかも知れない、いや、きっと別れることになる気がする。恋人は真面目人間で女の扱い方に慣れてないと善く採れるあなたか?

そうすると幸福がなんなのかを元々知らなかったってことにならないか?幸福の何たるかを知らないから幸福らしい物をアレコレ当てはめて確かめている旅の最中にある現代人かも知れないじゃないか!? そうすると成功は好さそうだから幸福になれる(かも知れない)気がして実際に手に取って見ようとする訳で、成功は一瞬の間のデキゴト。しかし一瞬の幸せ(≒成功)の後には何も残らないからまた幸せに飢えた状態になってしまう。

(くり返すと)人はお金を手に入れるとニンマリする。そのニンマリはいつまでも続かない。ニンマリ状態を一生続けたいがそうもいかないから日に何度かでもニンマリしたくて競輪・競馬・ボートなどの賭博場へ通うことになる。このニンマリの経験を第三者の三木は無視してくれるが当事者はニンマリが続けば嬉しい訳だ。幸せはニッコリすることと限らず、満ち足りることで手軽に一瞬の幸せ(感)に浸れる道理なのです。

刹那(せつな)の幸せを感じるのが例えばお金が手に入った瞬間に違いない。小難しく幸せと幸せ感とは違うと言いたければどう違うかを明確に説明すべきです。幸せを感じるから幸せ感で説明としては十分でないか?言葉遊びに現(うつつ)を抜かしているのを哲学とは言わない。哲学は実践であり、ニッコリでもニンマリでも構わないが、現実生活が幸せ感に包まれないなら感情のないロボットの世界観でないのか? 私はそう思う。

人々に誤解させる説き方はそれが例え間違ってなくてもいけない。況(ま)して三木は人々から感情を抜き去るのを好ましいとでも思っているのではないか? いかが?