了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

三木清(人生論ノート)⑩ 怒りと憎しみ

感情論は、論拠を自分自身の感情に置く議論の仕方と捉えられそうです。理性的な説明をしない・させない論法は感情論になっていると言えるのでないだろうか!? 三木清が迫害を恐れて事実を事実のままに語り難かっただろうことは理解する。事実を事実のままに語り難いとき、譬喩を駆使して事実を世に訴える手法があり、いわゆる直喩・隠喩・換喩・提喩・諷喩などだが詳しい説明は又の機会に回したい。

 譬喩を使おうが何を使おうが書き手の判断・裁量に委ねられることであれば、読み手はとやかく批判するよりも書き手の文は何を訴えたいのか理解に努めることが価値的に違いない。「レ・ミゼラブル」「戦争と平和」「秘密の花園」ほか、数々の小説はいずれも作者の趣旨が誤解されないように綴られているのではなかろうか?然(しか)るに三木の人生論ノートは煙(けむ)に巻くというか、読み手を欺(あざむ)いてはいないか?

官憲の検閲に備えて如何とも読める文体を採った積もりかも知れないが、それは同時にどちらからも裏切りとして捉えるべき文章になっているのが三木には分らなかったのか!? そんな論法が通るなら政府をサンザ誉めたたえた裏で、じつは全て逆の意味に理解したら好いのだよ等とヌケヌケと言い抜けできることになるじゃないか。ベストセラーを狙うなら恰好の手法か知れないが、それなら確かに敵味方の双方に売り込めそうだ。

怒り憎しみを少し考えていきたい。(三木は)怒りは目の前にいる人に対して作り出される感情とし、憎しみは目の前にいない人に対して作り出される感情としたようだ。三木自身の怒りと憎しみはそうだと言いたいのだろうな。怒りにふるえるときの三木は目の前の人物を激しく攻撃し痛めつけたいかも知れない。しかし目の前にいない敵に対しては憎しみの制裁を科すことができずに悔しくてならないと理解できそうだ。

怒りと云い、憎しみと云い、「三木はそれでどうしたいのだ?」と世間の人は思わないか!? 目前の敵には直接攻撃し、手の届かない敵には身代わりを攻撃したらきっと敵は悔しがり・悲しむに違いないとでも考えることは可能だ。そうすると人生論ノートで暴力革命の檄(げき)を飛ばすことまで画策できる。なにせ好き勝手に理解してかまわない三木のノートを使うときは何でもありの歯止めなき争いを避けることはできそうにない。

 怒りと憎しみはどんな時に起こる感情かと私なら考える。思惑(おもわく)がスムーズに行かず、あるいは妨害されたとき、幼児はどう反応するかあなたはご存知だろう? イヤじゃイヤじゃと駄々を捏(こ)ねる幼児を見たことはないか? 幼児には怒りの何たるかを理解する能力はないかも知れないが、身体が嫌なことに激しく拒絶反応を起こす。泣いたり喚いたり道ばたに寝そべったりして保護者を困らせて意を通そうとする。

学生や社会人になると流石に道ばたに寝そべることはしないようだが、思惑が外れたとき舌打ちしたり、俺のバカ野郎と罵ったり、解けない問題をヒネクレ問題だと誹謗したりして憂さを晴らそうとするが、妻が夫を、あるいは夫が妻を罵るような夫婦喧嘩が増えているようで、妻の意を酌んでくれない夫は妻の思惑を外れた訳で、夫の気持ちを理解しない妻は夫の「妻は夫を理解して当然」という思わく通りにいってない結果だな。

切れやすい成人者・妻・夫が最近増えているようだが全ては思わく通りにいかない誰か・何か・己などに怒りを覚えているのは間違いない。すなわち、目の前にいる人に対して作り出される感情と決まったことではないようです。親が子に怒りを覚えたり、子が親に怒りを覚えたり、己の性欲を従順に満たそうとしてくれない恋人に怒りを覚え・DVに走るのもやっぱり己の身勝手な思わくが叶わない現状に怒りが起きた結果かな。

憎しみについても推(お)して知るべし。思惑どおりに展開しないとき発作的に怒りの感情が起きるとしても、それは必ずしも悪い感情と決まったものでなく、己の反省の切っ掛けにもなるのだから、反省できる人には幸いな怒りの感情とできる。嫁が理解してくれないのは俺に至らないところがあると反省できれば前向きな怒りであり、前向きな怒りをくり返すうちには怒ることは無く、反省できるようになるのでなかろうか!?

幼児の怒りで分るように「怒り≒甘え」と捉えられる筈だ。甘えて好さそうなら甘えるし、甘えて好さそうでなければ甘えないし怒りもしない。あなたは羆(ひぐま)のようなコワモテのお兄さんに足を蹴とばされてムッとしても怒らないのでなかろうか?相手を瞬時に観察して、場合によっては知らんふりもすると思う。思惑どおりの展開にㇺってだけで済ます。ㇺってのも怒りと云えるが怒りは流れが変ったときの反応に過ぎない。

コワモテのお兄さんに怒りは抑えるが、理不尽さを感じて憎むってのはあるだろう。なんで俺がとか思うことになると悔しくて憎くて、だけど相手が心から謝ってくれたら憎しみまでは至らない。憮然とした顔で分れば好いんだよと言って済ますあなたかも知れないねえ。怒りと憎しみ‥日常の言葉で述べてみたけど何か間違ってないかい?小難しそうな言葉の切り貼りでも意味があるなら好いが、怒りはかなり小人間的な感情かも。

石に躓(つまづ)いて膝こぞうを強かに打って、だけど幼児は誰も見てなければ直ぐに走っていっちゃうじゃないのか?誰か観てたら照れくさそうに笑って見せたり、甘親が観てたら泣いてみせてオヤツをせしめる。怒りの感情も育っていく中で覚えると言えそうです。出合い頭にぶつかって、相手が弱そうなら怒って見せて恫喝する。強そうならゴメンと謝ったりする。会社の社長にぶつけられたら「ゴメンなさい」だろう? (笑)