了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

三木清(人生論ノート)⑪ 愛&嫉妬

既に展開した私の三木清論で「人生論ノート」は感情論になっているとお分かりになると思うが、彼の文には主格・目的格が曖昧(あいまい)という救いがたい欠陥があると言えそうだ。そもそも哲学を語る者が主格・目的格を曖昧に済ませては何を訴えたいのかが分らなくなって当然だ。仮定が示され・即・結論へと結びつけるなら証明がないままに信じなさいと言うごとき類(たぐい)の妄言・虚言と断じられて当然ではないのか?

三木は愛と嫉妬は似ていると説く。愛があるから嫉妬すると言う。本当だろうか?三木が愛と思っているモノは嫉妬に似ているのかも知れないが、それなら愛と嫉妬を説明すべき責任を三木は自ら負うべきである筈なのに俺はそう思うからそうに違いないと感情論を展開するしか知らないのか!つまり、三木の場合、愛と嫉妬心が連携して起るらしい。いやいや、三木は愛された記憶がないと云うべきか?それなら実に気の毒だが。

愛された記憶を持たない三木清は愛が欲しい愛が欲しいと泣いても愛は得られず、それで幸せそうな人を妬(ねた)むのか⁉ これが愛と嫉妬を区別できない三木の根拠と思えば成る程と思えなくもない。だからと云って愛と嫉妬は似ているとか愛があるから嫉妬するとか妄言をいくら吐かれても事実に反する訳で、すなわち、個人的偏見を万人に共通する哲理のように叫んだところて、そこには最早哲学はないと断ずることになる。

愛のベクトルには他(者)へ向かうモノと己に向かうモノとがあるがそれを知っていれば三木の誤りは起きなかったかも知れない。私は自分も大切だが、その自分を大切にするには他者が必要不可欠になると知っている。自己愛は愛のベクトルが自分へ向うが自分を愛したい幸せ気分を味わいたいといくら思っても物質で代用するほかない。(自己)愛はマインドであり、物質はマインドに替らず、物質は代用品ゆえ、愛は得られない。

偽物・代用品は愛に替らず、ゆえに見返りの幸せを得られず、貧乏人でも愛を得るのに、勉強はできなくても、仕事はできなくても愛は手に入るのに、持て余すほどの金銀財宝を持ってしても愛に替らず、その不幸な人が幸せな人に嫉妬心を向けても人を愛することを知らぬ者は決して愛を得られず、他人を惜しげなく愛する人を世界中の愛が包みこんで幸せにしてくれる。なんてことない道理なのに三木の類には通じないのか!!

人を愛すると云ったってお金が掛かる訳でなし、無償の愛を他者に対して捧げるだけなら貧乏な誰でも(私でも)可能なのに、仮にも呉れ呉れ坊主三木清であれば愛が得られても気づかず、奇特な人が三木のために善かれと思って哲学を説いてあげても感謝するどころか、諭(さと)されたと思えば面子が潰れるかも知れず、悔しくて呪いの言葉でも吐きたくなるかも知れないねえ。感謝の心で受けて幸せを知るのでなかろうか?

いやいや、三木清を部分的にしか知らない私ですから、もっともっと知ることで三木をもっと深く理解するかも知れませんが、100分de名著人生論ノート」を視聴して、それで善かれと思ってこうして書きつづっているだけですが、もしかして私の如き反応を期待してノートを作った三木かも知れず、それなら実に幸いなこと。(私はこんな塩梅ですが)三木に善く感応できていれば私にもあなたにも幸いなことに思います。拝。😅

 

(追記)

三木は嫉妬は平均化を求める傾向があるとしているようだが、仮にそうであれば平均化は善いことなのか? それとも悪いことなのか? そういったことを分かりやすく具体的に述べなければならない。岸見一郎教授は嫉妬は相手を低めようとする。本当は自分を高めようとしなければならないと述べて三木を補足している。

伊集院光氏の「わたし、ブスで困っちゃう」というフレーズを引用するなら、これは低めようとしていると捉えるべきか? それとも高めようとしていると捉えるべきだろうか? いかがだろう? これについての私の理解は次の記事で載せたいと思います。