了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

三木清(人生論ノート)⑬ 善の目的格は?

なんのためにをなすのか? この設問に対して良い社会を作るためと答えたら🌸マルを貰えるだろうか? ま、それは好いとして、良い社会を作るためにはどうするか? この設問に対しては善を為すと答えたら🌸マル誰かから貰えるのだろうか?

三木清義人について(神の)怒りを知る者と述べたようだ。怒りについての私の捉え方は⑩ 怒りと憎しみで既に述べたが「個人の生活のなかで作られ・育った感情」となる。そうすると神の怒りと云うのは神の仕打ちに触れた誰かが神の怒りと感じたのです。

稻妻(いなづま)が走って神の怒りを感じる人はいるだろうし、神の祝福(豊作)を感じる農民がいてもいい。それで三木の義人は(神の)仕打ちを善く知る者とする方が私的には納得できる。そもそも神が見境なしに怒るだなんて、誰か証明でもして見せたのか?

神の仕打ちを善く知る人へ神は善しか為さない筈で、後ろめたいことをしていない人は神の怒りを恐れることはない。横着して巻き添えにならないよう、精一杯の知恵を出して工夫して、その後は神の加護を信じていればそれで好いのでなかろうか?

結局、義人は善く応ずる人と私的には云うことになる。

さて、幸福になるのは正義に適うか?適わないか? 幸福になる生き方は素敵か? 詰らないか?みんなが幸せになる政治は素敵か?詰らないか? この答えに窮してらっしゃる人は多いか? 少ないか?幸福が嫌いなあなたを不幸が口を開けて待つだろう。

善徳によって命は輝き、悪徳によって命は曇ると云えそうだ。己自身を飾り立てるのがいけないのではないが、己(あるいは他者)を飾ってどんな徳を積むかが肝要となるのでなかろうか?善徳を積みたければ善を為すべきことは当然でなかろうか?

ハムレット風に言うなら、To be or not to be; that is the question. 
㋑言うべきを言うのは善く生きること ㋺言うべきを言わないのは不善の死に体 ㋩善を為さず善ぶるなら偽善で、正気の沙汰とも思われぬ。

それで㋑㋺㋩を私なりに完成文にしてみます。㋑私が言うべきを言うときは私は善く生きている。㋺私が言うべきを言わないときは不善の人生で役立たず。㋩私が善を為さず善ぶるとき私は偽善者であり地獄へ至る。

善と云い、悪と云うも他人ごとでなく、凡て私に返ってくる。このことを肝に銘じたうえで、私は他者へ善の醍醐味を回すべき‥となる。私が思った精一杯を他者へも語って知らしめて善を味わってもらうべし。とはいえ私に出来ることは知らせるところまで。

伊集院光氏はおれは言ったからな。後はあなたの自己責任だみたいにユーモア風に言ってたっけ?仕打ちに対して言うべきこと、応ずるべきに応ずるのは自己責任だかんね。黙りんこで通すのは勝手かもだけど誰の責任でもなく凡て自己責任って言ったのかな。

道徳の社会性ってことで三木が述べたが私の咀嚼(そしゃく)の範囲内で語ります。親の言いつけを守りなさい。目上の人を敬いなさい。良い子になりなさい。勧善懲悪。弱い人の味方になれ。不平を言うな。このように教わった人は多いのでなかろうか。

教わったことは善、それを順守するのは正しいこと‥このようにすり込まれて憶え・心身に具わる道徳のようです。社会全体が道徳を教わり憶えて心身に刻んで国民全員が制服を着る感じで道徳を身に着ける‥すなわちこれが道徳の社会性となる原理らしい。

この伝で小国民たれ。御国のために死んできなさい。等など‥当然とされていた戦前のようです。「それはどうしてですか?」という対話が普通に為される社会であれば、なんで死ななきゃならないのか、なにが勧善懲悪なのかが語られる筈です。

例えば特攻が本当に素晴しければトップが率先するのでなかろうか? 死ぬのが素晴らしければ首相が率先して死にに行くのでなかろうか? そんなこと分っていても恐ろしくて何も言えないあなたかも知れないね。知らないことは訊(き)。これに尽きるよね。

尋ねるは一時の恥、知らぬは一生の恥。そのとおりと思う。😅