了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

三木清(人生論ノート)⑬ 三木節考

今回『第3回孤独と虚夢に向き合う』に入る。三木清(ぶし)に私も少し慣れたかな。尚、節(ぶし)は語り口調や内容に個性を見て付ける‥所謂『楢山』など。

稲妻に怒りを見る人あり、恵みを見る人ありとは既に述べたとおり。それと同じく三木清(人)を見る人あり、(人)を見る人あり、虚無を見る人もあろう。自他世界個性に引きずられるのも人の(さが)と捉えて理解もする。受け手意味づける。

意味づけ‥価値づけとも言う。誰もが「世界を人を」価値づける。どのように価値づける?お金の価値に換算する人あり、無価値と見る人あり、有価値と見る人あり。手段としての価値を見る人あり、目的として価値づける人あり、獲物の価値と見做す人あり。

鰹節は吸い物の味付けとしての価値が一般的だが、ドラマーは音響の価値をみるかも。男の子はトンカチ代りの価値をみるかも。そんな感じで、人間・三木清を保護の対象と見る人はいらっしゃるかも、利用価値ありと見る人も‥見方はあなたの自由ですから。

虚無の世界を人は多様に価値づける。一人一人のソレゾレの発想に委ねられる価値。三木を善と見る人はいるだろうけれど、私は三木(=人間)が善か惡かは置いておいて、善としての価値を三木(=人間)に見いだす哲学が私(人間)のために優れると考える人。

個人には千万の顔があり、千万の顔は融合して無数の顔になる訳で、善くも悪しくも選り取りみどりの仕上がりなれば神にも悪魔にも変わるロジックはお分かりだろう。千万の顔をどう合わすのが好ましいか、想像力・創造力・形成力が求められる所以かと。

この想像力・創造力・形成力はどう具わるか?丸暗記で具わるものか。 ぶつかり・転んで・痛い目をみたり、悲しい想い・寂しい想い・ひもじい想い・辛い想い、もちろん嬉しい想いもだが、そういった経験・体験が無くて、どうして具わると言えるだろう。

痛かった‥だから部屋に籠もった。悲しかった‥だからお笑い番組で救われたと終るのでなく、勇気を出すためのお笑い番組のあとは世界にぶつかっていくのが良さそうです。己を憐れむだけの日々で終れば取り返しのつかない悔いを味わうだろうなあ。

扱(こ)けるのも寂しい想いも情けない思いをするのも‥誰かを巻き添えにして幸せになるのではない。自分の悲しさ辛さは誰かに肩代わりしてもらうものでなく、自分だけでそこから起き上がって歩き出すしかないのではなかろうか。あなたはいかが?

ひとりで立ち上がるのが嫌なあなたは人間に向いていないのでしょう。イワシ玉もあるし、猿山の猿もあるし、そこならひとりで立ち上がる工夫をしない仲間がいっぱいいるに違いありませんから、あるいは成長しない胎児で一生を閉じる児もいる訳です。

そういったことを気づかせてくれる三木節「孤独や虚無に向き合う」のように思う。