了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

三木清(人生論ノート)⑭ 構想力と秩序

守られるべき()があって、それでこの法を()と名付ける私。そうすると絶対的に守られるべき法に私は絶対正義と名づけることになる。これは私の構想に依る場合であり、あなたにはあなたの構想があって当然ですが、あなたならどう名づけるだろう?

三木清は造語が好きなようだ。私もだが三木も秩序立てた造語を考えるのだろうな。

守られるべき法を正義と名づけたなら、正義は守られるべき法と言えるだろう。あなたが「正義は守られる必要はない」と定義づけるのはあなたのルールに依るとして、あなたのルールが秩序だっている限りは別に問題はないと云えそうです。

仮に私の立てた正義の法が既に世界公認になっているなら私の法は世界の法としても通用する筈です。さらにあなたが私の法に共鳴するならあなたの法も世界に通用する法と云えそうです。またあなたが世界の法に共鳴する時、あなたの法と私の法は共鳴する。

世界の人々の個々人の法が共鳴し合うとき、世界の法は人類に受入れられていると云えるでしょう。このように(絶対)正義に関しては共鳴し得ても全ての法が共鳴し合うことは至難の業と私には思われる。現実は利害関係が壁となって立ちはだかったりする。

覇権主義覇道の人は己の法に世界・人類を共鳴させようとする。この覇道の法に共鳴する人たちは互いに相手を潰そうとする結果、世界は争いに巻きこまれて心安らかに過ごせる場所はどこにもない状態になるでしょう。所謂、悲惨な難民が世界中に溢れる。

ゆえに覇道に正義の法と名付けたところでそれに共鳴する人はいても、共鳴する同士で殺しあいをすると云えそうです。たとえば連合赤軍は共鳴した仲間同士で殺しあいを始めたのは周知の事実です。結局、他者を傷つける法は世界の法としてふさわしくない。

さて、生き物が生れた。生き物は生きた。生き物は生れては生きた。この生き物たちの絶対正義は何かと尋ねたとします。例えば井伏鱒二の小説の山椒魚は只々生きている。あたかも生きるために生きている感じ。「生きる」を守りつづける山椒魚なのです。

世界の主(体者)は生きることを山椒魚に求めている。私の池のメダカやミナミヌマエビやタニシに主体者たる私は生きることを只々求めていて、生きることをしっかり守るようにと餌をせっせと運んでいる訳で、世界の主も生きることを絶対正義とすると見る。

生き物たちが懸命に生きるようにとソレゾレの世界の主は願う。生き物が生きてこそ世界は美しく活き活きと生きているのはお分かりになるだろう。勝手な思いかも知れないが主(体者)は己の世界を美しく元気にあってほしい。そこに私は共鳴しているのです。

現に私が知る平和主義者も覇道の者も己の世界を美しくしたいように見える。じっさい活気に満ちた世界の主(体者)でありたい作りに生れついた人類のようです。この願いが叶うなら反対する理由があるだろうか?即ち、あなたが生きることは正義に適う。

正義と云うも主(体者)の都合で決るようです。絶対正義と云うも人類の都合で決るようです。もちろん、私の定義による造語と理解した方が納得しやすいかも知れません。絶対正義は人類のエゴイズムとも思われる。正義と正義で共鳴し合いたいものです。

こんなブログですが、(三木の)構想力と秩序への入り口にでもなったら幸いです。😅