了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

三木清(人生論ノート)⑯ 死とは? 生とは?

大上段からモノ申すみたいなお題で自分勝手に恐縮しております。😅

第4回「死」を見つめて生きる‥だが、死を経験した人は誰の身の回りにもいなくて、己の死(後)については想像で語る以外にない。だからと云って好き勝手に想像するのでは哲学にならない。そこで想像をキーワードにして類推してまいります。

言葉は変遷する。その言葉を遣(つか)う人によって変ったり、地域によって変ったり、時代によって変ったりする。そして(あなたは)「言葉とはそういうモノだ」と素朴にお思いになるかも知れなくて、それは哲学する姿勢として十分でないように私は思う。

想像という言い方にしても常に十分と言えなくて、想像縁語として妄想・幻想・夢想などが考えられて、例えば私は想像を語った積りでも「それはキミの妄想だ」「夢が叶うと好いね」と返されたりして微妙なニュアンスの違いがそこに認められたりもする。

具体的な象(かたち)とか確かな根拠とかロジックとかに裏打ちされていない想像はイマイチと見做されて当然だが、これが妄想の場合は元々ロジックがないのが当たり前、幻想に終るは往々にして見られる。そんな感じで哲学には高い信頼性が求められる。

ソクラテスは「大工と話すときは大工の言葉をつかえ」と云い、私にその深い意味は分らないが「共通する言葉が遣われないのでは話にならないと言えそうで、バベルの塔(旧約)には言葉の乱れから一座の人々が散り散りになったと記載されているようです。

結局、異なる意識の人たちの言葉が揃うためにどうしたら好いか?自分の言葉で書けば足りる個人的な日記と違って、読んだ人に理解されるべき文書には共通する意味合いの言葉を用いるべきで、互いに理解し合おうとする工夫のないところに哲学はない。

現実的には誤解のないよう言葉の意味の確認を相互にとり続けていくことで理解し合う関係は深まる‥と思う。このように述べる私には言葉の遣いかたを公開することで誤解させない狙いがある。それにしても哲学と言いながら言葉遊びに終始する人は多い。

さて、
三木清は「海 ⇒ 泡 ⇒ 死」の譬えを引いての状態をと見たようだが、泡は散って海へ返る現実を認めべきでしょう。そうすると海が素晴らしければ素晴らしい海へ返れる計算が成立つが、海が詰らなければ詰らない死後が必然的に待っていることになる。

なんの脈絡なしに夢が希望に置換わるなんてのは‥そんなの妄想以外のナニモノでもない。幼児は魔法の世界で遊んで成長もするが、疲れた時は成人も幻想の世界で一休みしても好いが、大人の哲学(の想像)が魔法幻想で終ることが有っては決してならない。

(生死の)海は素晴しいか?詰らないか?それを明らめず無闇に死後に希望を持てと言われても私は納得しない。「のプラン ⇒ (途中は)省略 ⇒ 希望の世界」の如き展開は哲学でない。夢は幼児も見るが、夢を希望へ結びつけるところに哲学の役割りがある。

私の思想に照らせば「死は生の状態から次へ移行する段階」と見做す。悠久の宇宙(世界)があって、生れて、死んで、何ごともなかったような悠久の宇宙が存在する。これが私たち人類の感覚にシックリくるなら、私の哲学と人類の哲学は共鳴し合えるのです。

個人個人の哲学は他の哲学と摺り合わすことで共通する部分が明確になるが、異なる部分も見えてくる。お互いを知ることでお互いを理解し合えるし、自分とは異なる他者をどう受容れるべきかも掴めてきそうです。他者を受容れるべきか?排除するべきか?

他者(人間)を受容れるべきとする思想がく成長して人間尊厳の思想へと熟成したのでなかろうか?他者(人間)を排除すべきとする思想がしく成長して人間蔑視の思想へと腐敗したのでなかろうか?熟成は人間を活かし、腐敗は人間を害(そこ)なわす。

夢を語ると馬鹿にする人は多いかも知れない。幻想を語ると楽しめる人は多いかも知れない。妄想を語ると難しそうに思えなくて手っ取り早く思えて悪ノリしたがる人が後に延々続くかも知れない。その点、哲学は面倒に思える? 哲学は確実なんだけどな‥。

何ごともなかったような悠久の宇宙。そこには無数の道があって、宇宙に溶けたり姿を現わしたりしながら生死を愉しむ私だ。私は道中に在って交差路で生の姿を現わす。交差路を横切る時に好きに道を選る。一瞬の生の交差路。渡れば溶けて夢をみている。

どこへ向かうのか、どこへ向かう夢なのか、すべては交差路で選択した私の自己責任。なにせ私は(体者)ですからね。あなたも愉しい夢を見られたらきっと素敵です。😅