了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

三木清(人生論ノート)⑰ 希望の源泉は?

今、65才以上の4人に1人が「認知症認知症予備軍」(厚労省調査)だそうな。このようなお気の毒な人をセメテ私の身の周りからは出すまいと折々に気持を引き締めている。

人生論ノートで三木清は「人生においては何事も偶然である。しかしまた人生においては何事も必然である。」と述べる。いったいドッチやねんと思いつつも「疑問を口に出さないほうが身のため」と感じつつ戸惑う人はマジョリティに属するのでないか?

この疑問を口にする or 口にしない‥このような場面で私は疑問に積極的に関わる。それを証明している私の三木清(人生論ノート)でもあるが、このように私は善くも悪しくもその結果に影響を及ぼす主(体者)の道を歩む人であり、私は全てを必然と出来る人。

己(私)に係わる世界のデキゴトを必然と出来る(私)ならばナニゴトが起きても己(私)の掌(たなごころ)で起きたことゆえ、次の一手も私の掌のなかのデキゴト。世界は必然の連続。これが他人まかせならどうか? 幼児の世界は偶然(≒魔法的)が断片的に現れる。

大人になるための幼児期間ゆえに他人が作った魔法の世界に遊ぶのもいいと思う。あてがわれた餌に喰いつくメダカに悩みはないように見えてメダカは好いなと思う幼児かも知れないが、弱いメダカは強いのやボウフラ等に食われる運命から逃れられない。

メダカでもう少し続けます。強い者を恐れて逃げ回り、弱そうな者を見つけたら居丈高になる。それがメダカの実態。そんな愚かな日々で大きくなってもメダカはメダカ。メダカが鯨に偶然なれたとしても食われるのみ。しかし、人は平安を必然的に手にする。

偶然の結果として刹那の希望を手に入れることが出来たとしても、一瞬先は闇。必然の結果としての希望は計画的に得るモノであれば、メダカでない人間は希望を連続して生みだしていける。年々・月々・日々・一瞬一瞬に希望を計画し生みだす哲学が善い。

希望なしには生きられないゆえに、きぼうを信じるしかなかったという三木を理解するが、それで希望を信じる源泉をどこに求めるべきか? 希望の源泉を知らなければ必然の結果として希望を見失う。欲しい欲しいと棚ボタ(偶然)の希望を狙うなら余りに愚か。

死は観念である自爆テロも辞さずという思想までが生れそうだ。死んだ友人と再会できるか‥死んで今日にも会えよという思想とも共鳴しそうだ。執着するものがあるから死ねる‥愛児が死んでくれればヤツもその気になるさという思想が擦寄ってきそうだ。

三木の人生論ノートはベストセラーになったらしい。その人生論ノートで実際に希望を得た人は誰だろう? 哲学者・岸見一郎教授は希望を得た希少な一人としても、三木から希望のヒントを得たというよりも三木を救いたいように見えるが、それも悪くはない。

最後まで絶望することなく彼は自らの「人生論」を書き終えた‥岸見教授はこのように締め括ってみえる。こういったフレーズが意味するところは三木清の人生論というより、むしろ岸見教授の人生論としての今回の講義であったように私には思われた。了。

 

(追記)

65才以上の4人に1人が「認知症認知症予備軍」(厚労省調査)‥これに関しては人生論ノート述懐として次に載せます。