了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

維摩詰⑥ 主体者たらん

(自覚の有・無に関わらず)生き物は展望する。能力(≒知恵)の差から見通す距離・時間・正確度などに違いは生じるとしても生き物は展望せずにいられない仕様のようだ。

己を過信する人あり。人間不信の人あり。それは余りにも人間的ゆえと云うべきか知れないが、それならそれで愉しめたら好い筈、だがそれは受容れられないみたいだ。 

一家の主も、事業者も、一国の総理も展望する。明日がより好くある為にどうするのが好いかと考える。結局、宗教・哲学が展望するのは余りに当然ということになる。

世界宗教だけでなく近世の新興宗教者も展望する。そして展望することで青写真が具体的に見えてくる。その末に出家信者と在家信者が誕生することになったようだね。

それぞれの教団・教派(の能力)に応じて出家・在家の意味・役割が考案された。意味づけ・役割が好い加減な組織は纏(まとま)りを欠くから内紛を起したりして自滅する。

事業だと定款やら社是やら将来の目標やらが定められ、役員やら相談役やらが決り・選任され、役職が適任者に宛(あて)がわれ、新事業のスタート開始となるみたいな‥。

いちいち文書にしなくても運営の原理は家庭の場合も同じことで、対外的な代表者を決めたリ、会計責任者を決めたリして、拙い運営を強いて空中分解する事態も起こる。

宗教団体の場合も決して例外でないってこと。化法・化儀‥つまり教団としてのカタチ・体裁が整ったら外面的にはさぞや立派に映るだろう。それで牽引力は整ったか?

いやいや、商いといい、布教といい、カタチだけで済んだら苦労要らずのウハウハかも知れません。つまり、出家信者と在家信者が整ってもまだ駄目ダメだめなんですね⁉

仏作って魂入れずって言いますけれど‥ぅう~ん、智恵に依るからこれ以上は分かる人には分かるけど、分らない人には分からない。仏法は盗む訳にいきませんからね~ 😅

ともあれ、出家信者と在家信者の関係だけでも明確にしたいかな。私的には出家と在家の関係をのように感じるのです。あなたはいかがだろう?竹の節と云えば好いか‥。

大地にしっかりと根を張った生命。それは孟宗竹の地下茎かも知れない。孟宗竹は地下茎で繋がって支え合う。時を感じた地下茎は他の竹から養分を分けてもらうらしい。

その養分は地下茎の為というよりは新芽に送られるのだ。陽の目を生涯浴びることのないスタッフ(≒地下茎)かも知れないが、それでも使命を感じるとき幸せを知るだろう。

その養分に力を得て硬い岩盤を割り地上に顔を出す筍(たけのこ)が見えるようだ。筍の軟らかい頭は傷つかないよう丈夫な衣に被われていて、それがグイグイ伸びるのだ。

いやあ、筍(≒ライン)は好いなあ。陽をいっぱい浴びられるステージへと昇って輝くスターたちだろ。大地の養分を仲間たちからいっぱい分けてもらって成長する筍だろ。

ラインたる節々はそれぞれに成長して天を目指してどこまでも伸びて好いんだ。スタッフは地中でしっかり支え、ラインは高く高く成長して、それでこそ使命を果たすのだ。

泥だらけで使命を果たすスタッフ(出家)と眩く輝くライン(在家)と、どちらが優れるとか上だとか、そんなことが重要なのか? 私は素朴にそんなことを思うのだけど‥。😅