了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

維摩詰⑦ お見舞い

 

今回から100分de名著維摩経第2回

内道たる仏教は己の内面に原因と手立てを探って状況を改善し納得の生き方へと自発能動で至る。また己のの神に目標・問題解決を委ねる生き方は外道と云うことになる。

仏教では十大弟子とか菩薩とかが必ずしも華々しい活躍をする訳でない。私たちと同じく彼らも凡夫。それだけではなく釈迦も人生に悩んで信仰生活に入ったとされている。

そうすると仏教は正に私たち人類発であり、人類を目的とする宗教であるとも云えて、そんな人間臭い出家や菩薩たちが描かれる維摩経に私はとても親しみを覚えるのです。

 

 病気になった維摩詰をお見舞いに行ってくれまいか?釈迦に頼まれて誰が嫌(いや)と言いたいか‥でしょう⁉ 私に任せてくださいと言えたら好いが‥言いにくい事情がある。

こういった窮地に陥ったとき、あなたはどう対応するだろうか?人ソレゾレだけど、維摩詰は罰が当った‥もある。じっさい出家信者を困らせた維摩に違いありませんね!?

並みいる幹部社員が異口同音に訴え出たら大概の案件はどこの会社でも通る筈だろ?高弟も菩薩も維摩の無礼を釈迦に訴えなかったのは何故か? あなたならドッチだろうか?

これはトップに従うと捉えて好さそうです。 犬が西向きゃ尾は東に作られている世界。この世界の仕様を善く採れば好いが、悪く採るとき組織は空中分解する憂目に合う‥。

釈迦が道理に法(のっと)るとき、仏の団体は危機を乗越え安定軌道に入ったと云えるかも知れない。何度も何度も危機を乗越えて安定飛行を続ける。それがまた好いのかも。

狡(ズル)を許すべきか?許さざるべきか?(100分de名著の範囲の浅学ですが)維摩経には出家のズルに目を瞑った釈迦が描かれる。即ち世界は因果応報ってことなんでしょう。

但し釈迦は「因果応報だから俺の知ったこっちゃない」なんて考えない。弟子たちの機根に合わせて助け船を出すようで、それで維摩詰の病気見舞いも設定したと私は思う。

お見舞いとは本来「訪ねること」を意味するようだ。「いや、維摩の病気見舞いだろ?」とお思いの方は多いだろうけど、私的には維摩が病気??‥って感じなんです。

そういったことを次は考えてみたいと思う。😅