了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

維摩詰⑫ 二項対立って?

いよいよ維摩経の講義も第4回目の大詰め。予想だにしなかった収穫も大いなる縁の賜(たまもの)で、釈徹宗氏の解説抜きには考えられず、この場を使って深謝いたします。

さて、二項対立を解体することで悟りの世界が顕れるのでしょうか?そもそも正邪・善悪・聖俗などの二項対立を想起したのは誰でしょうか?二項を想定し、対立(軸)を想定したのは誰だろうか?先ず須梨槃特に二項対立の概念など存在しないのでなかろうか?

維摩経に登場する菩薩全員が二項対立を想起したのであれば彼等はそうなのかも知れない。全員ではないが、釈迦の時代を生きた菩薩のマジョリティに共通認識の二項対立軸があった事実。縁起に照らせば磁石に引寄せられるようにそのに集合した機根かも⁉

酒に群がる男というか、饅頭に笑い集る女と云うか、遊具に戯れる幼児というか、そもそも有りもしない妄想の如きを示し合せたようにというか‥対立にワクワク感で集まった。それは生き物一般に共通して見られそうな群れたがる現象・機根と言えまいか!?

言葉の定義で変るにしても正邪のに対立は発生せず、発生するとしたら邪智に限らないか⁉同様に聖俗の、善悪のに対立は生れることは考えられる。対立させては正義に適わず、聖に能わず、善にそぐわず、然るに強いて対立とは狂気の沙汰でないのか!?

文殊の「言葉も思考も絶えた世界」に応じた維摩の一黙、それに更に応じた釈徹宗氏の一黙‥これは否定でなく肯定の立場と受取るべきです。なにせ公共放送での発言です。釈徹宗氏の一黙は重い。言葉も思考も絶えた=死の世界。私は維摩詰をそう理解した。

おいおい、それは寂滅かも知れないが生き物は居なくなっちゃうぜ。生きてこそ世界を愉しめるのでないかい!?静かも好いが賑やかも好い。目まぐるしいのも退屈も好い。こう理解するゆえに維摩の一黙に一堂に会した菩薩も出家信者も深く恥じたと私は思う。

なにせ治療目的の集まりだから病気の原因をしっかり指摘してあげてこそ患者は健康を取り戻せる訳で、患者にすり寄るだけなら藪医者だ。わたしはそう思うが、あなたはそうでないか?対立にならないために医者は感情的でなく、理性的に振舞わねばならぬ。