了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

維摩詰⑬ 相対的に見ると?

文科省教育を観察してみよう。幼稚園に通いだして日々に成長し変化を遂げる幼児たち。卒園して小学校へ通い、中学・高校と進級する。それで幼稚園から段々と進級する度に教育内容は進化すると捉えるべきか、それとも対立軸で捉えるべきか? いかん?

時々刻々・日々・月々に子供は異質なモノに変質すると考えるのは不健康。昨日から今日へと成長したのを昨日と今日が対立したと強いて捉えるべきか?昨日の上に今日の成果を積み重ねた姿が明日の子供の現実だ。時間軸には相対的に成長する人間が見える。

即ち、対立は妄想、悪しき夢に食い破られた姿。病気の出家信者や菩薩に限らない。病を得た人が見る悪夢。この悪夢に憑りつかれないように人の親は己が子に愛情を注ぐ。健康な出家信者は善き手本となって不二の法門へ入る姿を在家信者に示し教え伝える。

対立の解消法という教育を須梨槃特が修めたなどと私は聞いたことがない。仏法は背中で教えるものでなかろうか!? 親の背を見て子は育ち、出家の背を見て在家は染まる。善く染まるか悪しく染まるか‥そんなこと知ったこっちゃないと云うなら出家でなかろ?

またまた孟宗竹に倣(なら)うなら、孟宗竹の地下茎は乞食行で得た養分を地下茎に融通したり筍に送ったりするのであり、己の食欲を満たすためだけに養分をあさるような浅ましいことはしないのでなかろうか?そのように修行し続けた須梨槃特でなかろうか?

すなわち、須梨槃特に倣おうとしない(肩書きだけの)出家は仏敵となっているのでなかろうか!? 子供は成長する毎に高い学問を究め、出家・在家ともに成長する毎に高い法を究めるのでなかろうか!? いつまでもあいうえおばかりを学んでいて好いだろうか?

私たちには高度な実践の仏法が欠かせない。実践の仏法でなければ私たちは満ち足りない故にです。それにしても私のためにとても役立つ講義でした。それでありがとうございます。謝。