了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

エミール② 内道読みが優れる

仏教内道キリスト教外道と捉える人は多いかも知れない。内道は己の内に原因・結果を観る思想、外道は己の外に原因・結果を観る思想と理解したら仏教キリスト教の実態が少し異なって見えるかも知れない。今回はそのような視点から見ていきたい。

さて格言「身から出た錆」に内道読み外道読みがあると私は思っている。私は仏教徒であることを自負しているが、自負するからには仏教それなりに自信を持っている。「それなり」という断りは己でも悩ましいが‥ 私は成長途上だと理解してほしい。😅

ナザレのイエスは石で打殺されそうになった女を見て内道読みをした。女に罪があると言うが、私に罪はないか?と己が内面(己心)を省みて哲学を始めたのはご存知ですね!? その場に居合わす己は誰かと哲学は続けられる訳で、主(体者)ナザレのイエスとなる。

このように哲学するナザレのイエスに共鳴・同調するあなたがキリスト教徒であっても仏教徒であっても内道でなかろうか? 外道読みするあなたはキリスト教徒であっても仏教徒であってもその実態は外道なんだと理解すべきでなかろうか? 如何思われますか?

内道は全ての原因・責任を自分が受けとめる主体者の自覚を持ち、外道は責任を負うべきは誰かと考える‥あいつが悪いか? こいつが悪いか? どっちが悪いかというように対立軸に立って解決策を求める。ま、私の責任だなんて考える人は滅多にいないよね。

それであなたは責任逃れする人を選びたいか? 人の成果を奪って平然とする厚かましい人間に育てたいか?責任者(≒主体者)として社会を引張っていく人材に育てたいか? 私が姑息な生き方をしてみせたら結局私は身から出た錆の悲哀を味わうことになる筈だ。

仏教徒だから内道と云えるのではない。主体的に生きない私は必ず外道の穴に嵌まって悔いを残す。そう哲学してきて、内道の縁語は主体的・自己責任・道理・実践の哲学・実践の宗教などが考えられる。「内道=仏教徒」と即答できないところがモドカシイ。