了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

エミール⑧ 親のするようにしか子は成らん

今回から(100分de名著)エミール2回目で12歳~15歳の少年期が対象らしい。とは言え、教育は万人一律の規格が決っている訳ではない。学ぶ人の能力に応じ、また教える側の能力に応じて教育形態は替っていい。それで私はエミールに学びたいと思ったのです。

ルソーはエミールを編んだ人であり、私は21世紀を呼吸する人。つまり、ルソーは零(ゼロ)からエミールを書きあげたが、私はエミールを発展させた地点からスタートを切った。すなわちエミールの枝葉末節に囚われず、私の経験知を統合させ上書きしたい。

ルソーは教わる側の好奇心有用性を重視したらしいがこれは万人に共通する。好奇心は学問の原動力になり、有用性は満足を齎(もたら)す。教わる側も教える側も、子供も成人も性別にも関わらず、好奇心と有用性が感じられてこそ学習意欲は高まるだろう。

好奇心を種(≒因)として有用性という果実(≒結果)を期待できるし、この考え方はルソーと矛盾するものでない。ともあれ好奇心無しで憶える得意技はコンピュータのものだが人間は好奇心を燃やす能力(智恵)の所有者であり、満足を必要とする智恵の所有者だ。

学習の到達地点は将来(≒未来)に置くしかなく、それを現在に置くのは理性的に考えて無理があるようだ。学問によって学問自体は深まるだろうし、深まった学問を追求する時は未来時点の「今」としても、学問の追求自体に価値があるとは考えない方がいい。

重要な点はルソーの教育論は進化して現在に至っていると知るべきだ。ルソーと私と‥知識の擦り合わせで誤りやすれ違いが生じないための検証は必要だ。誤りが無かったという確信を得て満足を得られても、真の目的は知的好奇心を満たす所ではないと思う。

さてルソーが言うところの好奇心を詳しく説明すると、教える側の好奇心でなく学ぶ側の好奇心のことをいう。同様に学ぶ側の有用性を言っている。そんなこと分ってる・当然だと後出しジャンケンみたいに言うのは容易くも、現実は教える側に擦り替りがち。

ところで好奇心はドコで得られるのだろう?世界を見て、世界に触れるなかで好奇心は生れるとしても私としては「そのとおり!」と断定したくなく、これはやっぱりルソーに倣(なら)って世界を共に見、共に世界に触れるなかで好奇心の形が見えてくるかな。

なにせ好みはサマザマですし、能力にも得手不得手はあるし、暖かくなって芽吹くとしても、瓜の蔓に茄子はならぬ(うりのつるになすびはならぬ)訳で、しかし親子といっても鳶が鷹を生むかも知れず、何ごとにつけ親の言うとおりに子は成らん訳ですね‥。