了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

エミール⑫ 時に適う? 適わない?

誰にも様々の転機が訪れて、しかも転機は屡々(しばしば)訪れるから個々人にとっての今はどんなかなんて安直に決められない筈だ。決めて好いとしたら他者のでなく己の「」に限るのでないか?己のことは自己責任で、その結果も全て一人で責任を負う。

そもそも子どもは時に適わない学習に乗り気にならない。親が敷いたとか、誰かが敷いたレールやプランに合わない子はドヤシつけられるとしても、だからと云って既定路線がその子のに適うと誰が責任を持って言えるのか。そのことを知悉しておくべきだ。

感覚を鍛える、運動能力を鍛える、協力して為す楽しみを知るべき、他者を信じるべき、他者を警戒すべき、他者に委ねる途を知るべき、他者を理解する能力を高めるべき‥等など、にも無数あって、その点で親といえども他人と換わらない。

また時を知ることを先見の明と言うのでなかろうか!? そうであれば先見の明がときに人間を不幸にするなどと捉えない。これが独学で知識を身につけたルソーの限界だとしても私には彼の鋭い洞察力が感じられるし、彼が言いたいことは私に善く伝わってくる。

ルソーは「」の一語に縁語全ての意味を込めたかも知れないが、現代語のは希望・妄想・推理・想像などに別けられる。妄想を抱いて先見の明とは言わない。推理できてこそ先見の明に近づくし、希望が具現化するために道筋が必要不可欠なのは当然です。

Boys, be ambitious. この有名な一節もどっちへ転ぶか分らない「夢」を目標に掲げたものに違いないが、夢を妄想で終らせるか?大志とすべくプラン・道筋をしっかり練りあげるか?少年がに適った対応をするとき、先見の明が有ったと人の口に謳われる。

もちろん、人の賞賛を浴びる目的で生きる必要はなく、私で云えば愉しく生きていけたらそれで十分報われると前述したとおりですし、己が子が、教え子が、友だちが幸せに暮らしているからそれで十分に報われたと感じてらっしゃるお母様方は多いようです。

このようなお母様方、あるいはお父様方、あるいはお友だちの生きる姿勢は子供たちの勇気を引きだしているようにも思えるが、このような存在を知る子供(エミール)は既に適切な依存関係を得ているのでないだろうか?いわゆる背中で教える姿勢にも通じる。

この保護者や友人はエミールの幸せを吾がこととするからエミールはこの親を鑑(かがみ)として己の言動をチェックして見直す。思いを口に出さなくとも親が子どもの言動に一喜一憂するとき、承認欲求が満たされている子どもは(親の)背に善く倣うのだろう。

こう理解するとき、庭師の畑を荒らしたエミールは家庭教師の言葉に学んだのではないと分かる。家庭教師は申し訳ないという思いを庭師に示した筈であり、エミールは悪いことをしたと分ったのではない。家庭教師の申し訳ないという仕草共鳴したと判る。

人類が正義の何たるかを分るにはルソーから数百年掛かることになりそうです。ともあれ、正義を知らないルソーであっても子どもを真っ当に育てる努力をしている訳で、真っ当に育てたいとの思いに触発されて次世代も同じ色に染まることの心地よさを得る。

初めは妄想並みの夢であっても幸せな色を見せてもらってエミールは己の夢に方向性を見いだすのだろうな。その進む方向がしいとき、エミールの夢は砕け散ることなくい道筋を見いだして、社会へ次世代へ空間的にも時間的にも衰え知らず‥だと好いな。

即ち、実践の学びであれ、机上の学びであれ、学びは染まることであり、仏法的にこれを感応と言うようだ。これは子どもに限ったことでなく、正邪・善悪に無知な生き物は何に染まるかを選ぶ際に感情に委ねる。餌をくれる合図の拍手に寄っていく鯉とか‥。

 イソップ寓話に限らず、西洋の童話は具体的なようです。狼の恐ろしさを教える赤ずきんちゃん。狐の狡さを教える烏と狐。嘘をつくことの結末を教える狼少年。幼いに人間の恐ろしさを教えるのは適切でなく、それで恐しい獣が登場する!‥分らんけど。😅

ともあれ、ルソーがイソップ批判をして見えても、ルソーもイソップも私なりに善く理解している故に私はどちらも安易に批判しない立場なのです。ルソーはイソップを語る大人へ注意を促しているのであって両者への批判は当らないという理屈を見つけたい。