了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

エミール⑬ 靠(もた)れて‥

西研教授の分りやすい講義に支えられてここまで辿りついた。ここからエミール第3回に絡みます。

もたれの検索が一夜に及び、夢にみた台詞は斯くのごとき‥

床柱とこばしらにもたれたるなおの‥再び床柱にりながら嬉しそう‥柱にれる‥
‥女はわがうつくしき眼と、うつくしき髪のぬしである事を忘れた。一人の男は髯のある事を忘れた。他の一人は髯のない事を忘れた。ますます太平‥

不思議な感じだ。一刻(いっとき)の長閑(のどか)な景(けい)としても、醒めてみると喧騒の日常だとしても、もたれ合いの見られるところに期待している‥私。その内に折りをみてじっくり一夜を味わいたい。

もたれられるって事は甘えられるってこと。気を許せる間柄ならではの倚(よ)りあい・靠(よ)りあい。そういえば今朝のひよっこに似たものを感じた。戦後の倚りあい横丁・倚りあい長屋・倚りあい所帯。倚りが寄りより「よりより」っぽくて使っている。😅

もう大人なんだから他人を頼っては駄目‥こんな言葉は普通すぎてもう死語かも知れない。支える人は自覚しなくても、私は支えられていることを勝手に思ったりする。そこは空気が薄い所かも知れない。その点、靠れ・靠れられる所は互いを感じられそうだ。

支えあいは好いが靠れあいは駄目‥なんて格好いいフレーズも当世の先進文化圏ならではか。そういえば「坊ちゃん」にも恰好よくない登場人物が犇めいていた気がするが夏目漱石は靠れ・靠れられるほうが好きだったか‥そんなふうに思われたりのい所か。

共感できない者に倚りかかられては鬱陶(うっとう)しいだろ?それで文化的な社会人は共感できなくて支えあうのか。倚りかかられるのを拒絶したがる現代日本人も支えあう程度の関係までは受容れる。希薄な空気では引っ付くだけで息苦しくなって当然かな。

結局、共感関係には相手を受けいれたり受入れられたリする素地がい。エミールを受容れる家庭教師がいてこそエミールは心置きなく家庭教師に染まることになる。家庭教師は主体者であり、染まるエミールは客体仏教では能く染まる所と説明されている。

すなわち、主体者に相当する世界市民が社会を支え未来を支える。社会人教育と云っても特別優秀な人物を育てることでなく子どもに主体者意識(≒責任感)を育てるのだから、責任感のある大人(≒主体者)に染まること、結局、親(私)の責任は重たいってこと。

私たちの心に人間愛を感じさせるのは私たちに共通する惨めさなのだとルソーは述べたらしいが、これで思い当るのは飢えた者への炊きだしとか慈善鍋だが、惨めさ 恐怖であって飢え死の恐怖に追込まれた者が人間愛を感じるとまでは私は言えない気がする。

仮にもそのようなロジックが通るなら、人間愛を感じさせるために人を死の恐怖に追い込んでいいとなるのでないのか?外道であれば何よりも大事なを感じさせる目的で圧力をかけることは考えられても、内道は内発の慈悲の発露をこそ大事とみるでしょう。

外圧を好しとする思想の環境下で子どもは須(すべか)らく善悪の見境なく染まる結果、善と悪の双方共に熾烈さを極めた争いに持込むまでに至りそうだ。いわゆる、軍拡競争・核開発競争は内発を信じられない者たちの終いに同士討ちする姿まで見えてくる。

人間を社会的にするのは彼の弱さだの感覚は如何? 善であれ悪であれ、核競争する双方ともに社会的な広がりを持つ。社会的であることで素晴しいと云うならそれは誤まりだ。即ち人を惨めに追いやってはならない。私にはそう思われてならないが、いかが?

の感情は仲間を支えようと願い、さらに増幅すると疲れた人を靠(もた)れさせてあげたい。の感情は支えてほしく、これが増幅すると人間憎しの極限まで脹らむのでないのかな⁉ 正の感情は即ち正義であり、負の感情の弱さへ向わせるのでなかろうか。

ともあれ、弱肉強食の世界ゆえに攻撃の矢は己よりも弱そうな者へ向けて放たれる。傲慢な者は愚かにして己の弱さに気づかず終に滅びる約束らしい。己の心身を己が攻撃する世界の仕様であるとでも考えられたら少しは謙虚に少しは賢くなれるでしょうね。😅