了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

エミール⑭ 結局は私の問題だな

異端審問のジャンヌ・ダルクを知らない人はいませんね。カトリック教会から後世認定された聖人ジャンヌを司祭に化けた百体超の悪魔が焼き殺した事件でしょ⁉異端審問は近世まで続いていて、魔女裁判や非公式記録まで含めると何万の犠牲者を生んだか‥。

この恐怖の黒歴史が繰返された西洋社会で事実を語るのは危険だった筈で、だがルソーは書いたようだ‥教会で聞き分けの悪い者は刑罰を科され牢に押し込められたとか、聖職者の誰もそんな罪人を救おうとせず、只、挿話の2人の善き聖職者だけが例外的だ。

こう見てきて聖職者という一括りで教会を判断しては誤まると分かる。そういったことを考慮して続けたい。世界の万物に秩序を与えている存在をルソーは信じていた。これはしかしルソーの感情論でしょう。何の根拠も示されないのでは弁明のしようもない。

(ここで確認しておくべきは)感情論であれ理性論であれ、それだけでは価値がない。価値を目指してこそ価値は具わるのかも知れません。ルソーが人間大好きと訴えているのはお分りでしょうか?事実として述べられなくても彼の哲学の示す先に人間が見える。

ルソーの神は人間に良いことをしてほしいと思っているらしい。そのような神ならルソーとしても信じられると言っている。教会が駄目ならルソーの出番だとも言ってるようだ。そういうことなら神はルソーを強力にバックアップしてくれる筈だろう!? 如何?

憐れみを社会の基盤とすべきと考えたのがルソーなら理解する。ルソーが育った社会も教会もルソーを善く理解できなかったのは能力ゆえに仕方ない。だったら生きる糧だけでも欲しいと願うのは欲深い願いごとではない。せめて憐れみの心に縋りたい思いか。

ルソーの周りを見回せば利己利己利己の心が溢れている。貧乏人の利己は生きるためでも、金持ちの利己は遊ぶため。そのような利己の人ばかりが街にも路地にも教会にも見られて、利己の心は誰彼なく全て自己愛と思い込んでも仕方あるまい‥ちがうけどね。

独学の悲しさか、調べる手段をもたない悲しさか、善い司祭に出会えなかったと言うべきか、だけどルソーが言いたいことは分かる気がして許せる気になる。利己の心から生れるものが愛である訳がないから、それゆえに不幸を招き寄せることしか出来ないさ。

虚勢を張るのをプライドと間違って憶えた節もある。虚勢は他者と競争する所に見られるし、自尊の心は他者とは無関係の己自身の神に恥じたくない所に生れるのでなかろうか?こういったルソーの何気ない文章からもルソーの育った環境が劣悪だったと分る。

そうするとルソーも白は白黒は黒と思ったままを述べたと言えそうです。

自分よりも幸福な人の地位に自分を置いて考えることはできないだろうか?あるいはまた、自分よりも憐れな人の地位に自分を置いて考えることができるだろうか? これ等はルソーの推論だろうか?あるいは感情論なのか?一見マトモだが筋が通っていない。

ルソーよりも幸福な人の地位に自分を置いて考えることができなければルソーはその人が幸福か否かを知ることすらもできない筈で、故にこれは意味不明な文になっている。私は己よりも憐れな人の地位に自分を置きたくない。例えば僻んだ見方をしたくない。

一歩前進するときは善き手本を示している。後退しているときは悪しき手本になっている。悪しき手本を示すとき私は悲惨に打ちのめされなければ申し訳なく、あるいは強がり‥つまり虚勢を張っている姿を世に晒していてこそ善い手本になるのでなかろうか。

本地は菩薩であっても悪しき手本になるときは苦しむ約束でなければならず、それが嫌なら懺悔・反省して善き振舞いをして本地を現わすのが好いようです。私はそう思うのだけど違うかな?結局、知ってる知ってないの問題でなく、実証を示すか否かだよね⁉

ひとつ積んでは父のため ふたつ積んでは母のため‥
私の読みかただけど‥種を蒔くのも肥料をやるのも草引きも回向だろうな。