了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

エミール⑰ 約款 ‐6

ルソーは自然の教育・人間の教育・事物の教育を提唱した。この3つの教育の読みに浅深高低がある。悪魔との契約ではこの浅深高低の差が運命の別れ道になると言えよう。お人好しの心は教育を文字どおりに受けとめるが、悪魔はシメシメと舌なめずりする。

どんなに曖昧な約款でもお人好しのあなたは縛られるが、悪魔は縛られない。悪魔の毒牙はあなたの身に届いて、あなたは悪魔に触れることすらできない。初めから勝負はついていて、あなたが仕出かしそうなことは悪魔を真似て罰せられ悔しがる程度かも‥。

そもそも、私はお人好しの心が駄目とか詰らないとか思ったことはない。お人好しの心は例え愚かでも良い心であり善心です。仮にも良心・善心にイチャモン付けるような奴は碌でなしだ。つまり、人の良心を食い物にする奴と言ったら悪魔の手下ぐらいだろ?

価値とは何だ?ルソーは幸せを重視した。価値は人を幸せにする。幸せにする価値かも知れないが使いかたを誤まるときは不幸になる‥そこから欲望を制御して幸せになることを思いついた。即ち価値と賢く付きあってこそ幸せになれる‥強ち間違いではない。

刹那の幸せはルソーの理屈でいいかも知れない。但し永遠の幸せは普遍の価値観に立ってこそ手に入るのでなかろうか?つまり、欲望を制御して得られるような単純なモノだろうか?煩悩を抑えて手に入れる感覚には限界があることは誰でも知っているだろう?

理性は永遠性を指し示す羅針盤と言えそうで、煩悩(≒感性)を補う。ゆえに理性と感性の補完作業を実践する人が尊いと言えるのでなかろうか? 知ってるだけならコンピュータで代用できるが、実践は当人の権利として保護されて、他の誰も代理は務まらない。

こう捉えるとき、世界中の知識を盗み貯えた怠け者の悪魔が物知り顔で知識を振りかざす姿は滑稽に見えてくるのである。結局、あらゆる場にしゃしゃり出てきて中心にいて仕切りたがるのは悪魔の性分とも言えそうです。教育では手本を示す人が尊いのです。

一般的に(日本)人はトップの座に就いてこそ責任を取(れ)る資格を得ると思いがちなようだが、トップの座は悪魔に奪われたとしても悪魔は手本を示さない。重い荷を軽々持ち上げて能力を見せつけてもパフォーマンスのどこに価値があるものか‥そうでしょう?

パフォーマンスはお手本にならない。その程度も分らなければあなたは既に愚かな奴隷の脳みそになっているのでないか?悪魔は人並に汗を流さず、ゆえに貴い涙を流さず、私たちに寄り添わず、高みから涼しい顔であなたを見下ろしている怠け者に違いない。

さて、これで権利・正義・法の正当性の根拠を悪魔は持っていないと知らなければならない。ルソーは正当性の根拠を示し証明すべきと考えたのでなかろうか?私にはそう思われる。悪魔のは獰猛だ。だがルソーも「力は正当性を生み出さない」と主張した!?

で従えるのを弱肉強食といい、愚かな生き物は力に従い地の肥しとなる。それはそれで意味があるゆえに一部の理であっても、死んで肥しになるしか能がないあなたではあるまい。初めは畜生として生れたが、進化して人になって、まだまだ旅は続いていい。

私たちは悪魔にも誰にも国家にも支配されてはならない。私はそう思うが、奴隷志願するあなたを誰も止められるものではない。😅