了(りょう)

このブログは「思想」をメインに扱います。私の場合は思想と云っても決して高尚なものでなく「対話重視の思想」という程度のものです。😓

由美子って廣野だよね!?⑪

直前の記事で人を救いたい思想がいいと述べた。人を知りたい思想に意味がないとは思わないが、ここは100分de名著高慢と偏見について考え・語る場であることに照らせば人を救いたい思想人を知りたい思想の優劣をハッキリさせる意味はありそうだ。

偏見に囚われないためには人を同じ条件下に置いて見るべきで、自分の都合で観る基準を変えてならないのは当然です。そして何よりも重要なことは「なんのために?」人を知ろうとするか‥でしょう。 目的なしに真っ当に観ることがハタシテ可能だろうか?

アンケート調査にしても目的に見合った対象(素材・検体)を揃えるわけです。高慢と偏見の意味を具体的にした上で、例えば 高慢はどう人の役に立つか、偏見はどう人の役に立つかという視点に立ってこそ人を救う智恵も生れると言えるのでなかろうか?

初めから偏見に立って見るのでは、そこには既に歪んだ認識が生れていて、それで歪んでない像を見ようとしても出来ない相談と云うものです。短所は長所になり、長所も短所になってしまう。安直に短所は短所長所は長所と決めつけてはならないと思う。

そういったことをリジ―とダーシーは会話をとおして私たちに暗に教えているのでなかろうか?(誰のことでも)憎んでしまうのはいけない癖だし、(人の言うことを)誤解しないよう気をつけるべきだし、オースチンも私の考えに反対しないのでなかろうか?

オースチンとの出逢いは私に幸いで、廣野由美子との出逢いは私に幸いで、伊集院光も島津有理子もジェインもリジ―もメアリ―もキャサリンもリディアもコリンズもビングリーもダーシーもウィッカムも‥誰一人として私のために幸いでない者はいなかった。

私に幸いした者たちが他の人には幸いでないというなら、幸いした者たちと幸いしない者たちでは全くの別人だとでも云うべきだろうか?もしかして、相手から受取るモノの違いは受取る側の思想の違いに寄るのかも知れませんね? いかがでしょうか? 😅